ニートが好きだね?

ニートが好きだね?

昨日と違うニートになる。頭はたくさん動かした。手の動くままにやってみるよ。

ニートが好きだね?

『YARN 人生を彩る糸』のアーティストから糸のアートを学ぶ

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糸を用いて表現する映画

『YARN 人生を彩る糸』のアーティストから糸のアートを学びました。アイスランドとポーランドの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的にはヤーン・グラフィティ・アートをはじめ糸を使ったアートについて4組のアーティストから魅力、考え方、表現、問題を追ったドキュメンタリー映画です。

YARNとは

まずこの映画の話にいく前にYARNとはなんなのか調べてみました。

紡績糸、織り糸、編み糸、より糸、(冒険談などのあまりあてにならない)物語、旅行談、作り話

yarnの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書より引用

 辞書によるとこんなところですが映画の冒頭のほうが分かりやすくまとまっていたのでそっちを紹介します。

(名詞)織物や編み物に用いる糸で天然繊維や合成繊維を紡いだもの

(動詞)よくできた冒険譚をたっぷり話すこと

映画『YARN 人生を彩る糸』より引用

 書かれている通りYarnは編み物等に使われる糸のことをさします。そしてヤーン・グラフィティ・アートとはある程度想像ついてくると思いますが調べてみます。

Graffitiとは

グラフィティ (graffiti) は、エアロゾールアート (aerosol art) ともいい、スプレーやフェルトペンなどを使い、壁などに描かれた落書きのことである。グラフィティを描く者のことを、ライター (writer) やペインター (painter) という。

グラフィティ - Wikipediaより引用

よく壁などに書かれている文字や絵のことを指します。所有者や管理者の許可を得ずに描いたりたびたび問題になりますが1970年代のアメリカ・ニューヨーク発祥と歴史もあり落書きなのかアートなのかの線引きは難しいように感じます。

Yarn Graffiti Artについてとこの記事での解釈

この映画の一部はグラフィティを糸を用いて行うヤーン・グラフィティについてのドキュメンタリーなのです。しかしグラフィティの項目に落書きとあるようにアートと捉えるか落書きと捉えるかの問題がグラフィティにはありますが今回この記事ではアートとして取り上げていきます。

またこの映画内においては活動を無許可で行っているアーティストとプロジェクトとして許可をもらいやっているアーティストがどちらも紹介されているためヤーン・グラフィティ・アートと糸を用いたアートはそういう部分では別の物と言えるかもしれません。

ですが紹介された4組のアーティストには糸を用いて表現しているという共通点はあります。それでは映画の話にいきます。

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編み物と女性

4組のアーティストについて

この映画では4組のアーティストが紹介されています。その4組とも女性です。もちろんチームとして活動している場合もあるので男性も登場しますがあくまで女性主体のようにあります。

  • ティナ氏 ヤーン・グラフィティ・アーティスト
  • オレク氏 ヤーン・グラフィティ・アーティスト
  • ティルデ氏 サーカス「シルクール」創設者
  • 堀内紀子氏 「ネットプレイワークス」共同創立者

編み物と女性とアート

アイスランドのティナ氏とポーランドのオレク氏、そして日本の堀内紀子氏からは編み物と女性の繋がりを強く感じました。 

手法であるかぎ針編みと棒針編みを覚えたのは祖母、曾祖母だったり、母親からだったりと家族から教わった人が多かったですが、父親や祖父から教わったという意見はありませんでした。

ティナ氏とオレク氏からは編み物は手芸とみなされアートとして評価してもらえないという意見が共通していました。

表現することにおいて人種や性別、年齢は関係ないはずなのに女性の手仕事とみなされることでアートとして正当にみられていないという意見なのです。美しくて役にも立つ立派なアートであるという意見を持っていました。オレク氏のドイツでの作品からはあえて性的な表現を選ぶことにより編み物と女性、アートと女性への偏見のようなものの訴えを感じました。

堀内氏によるとほんの数十年前まで多くの女性が服を作っていて何千年もそうやって暮らしてきたから編み物みたいな反復の動きが女性の体には染みついていると編み物と女性の繋がりをこのように話していました。ですがどの時代もどの国でも職人は常に男だったと述べています。

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糸での表現

“糸”と“人生” それぞれの考え方

4組に共通していたのは糸を用いて表現することですが、ティナ氏とティルデ氏に共通していたのが“人生”という言葉でした。

ティナ氏はこのように述べていました。

ティナ「手芸のすばらしさはヨガに通じるものがある とても心が落ち着くし私たちの人生みたいにひと編みひと編みに意味があるの 人生も小さな歩みを積み重ねてゴールに近づいていくものだから」

映画『YARN 人生を彩る糸』より引用

小さなひと編みから心を落ち着け前に進むことを学べるといいます。無心に続けた先に得られるものがあるのだそうです。

ティルデ氏はこのように述べていました。

ティルデ「“欲することや努力をやめた時 人は人生の意味を失う”と 私が表現したいのはそれだと思った だってパフォーマーの毎日はもしかしたら無意味に見えるかもしれない ロープの上を歩く練習を繰り返す日々よ でもそれが人生であり生きることなの」

映画『YARN 人生を彩る糸』より引用

一緒に働いていたいろんな方から人生の意味を聞いたところ同じ答えが返ってきたと言います。そして自分の表現したいことに気づいたのだそうです。1つのことを続けるのは難しいけどその努力にこそ人生の意味があると言います。

またこのサーカスのパフォーマーのアレックス氏は「糸」は人生のメタファーだと述べていました。1本の糸でもありもつれたり色んな模様になったり入り組んだりとまさに人生のようだと。

オレク氏はポーランドでの社会主義の下での生活にどうしても馴染めずアメリカに行ったといいます。ポーランドではけなされたがアメリカでは表現を褒めてくれたと。なんにもない状態でアメリカに着いた時絶対成功してやると心に誓ったそうです。

オレク氏にとってかぎ針編みは自分の中での言葉でありこれでコミュニケーションをとってアイデアを形にしていく、そして自分にとって「糸」は絵具でありいろんな色の糸を縫い合わせて糸を使って絵を描いているみたいなものだと言います。

堀内氏は名前の「紀」という字が「糸」と「己」に分けれて私の人生は糸を追いかけていると笑顔で述べています。

堀内氏は「糸」を使って子供たちが遊べる空間を作りました。30代の頃に自分の作品に足りないものが何なのかを考えたのです。

堀内「布は人のために作られたのだと 心地よさのためだったり体を包んで守るために布は目覚ましく進化してきた なのに私は“人”を忘れてたの」

映画『YARN 人生を彩る糸』より引用

そしてある展覧会でハンモックを展示したところ子供がそれに乗り自分の作品の形が揺れ動いて自在に形が変化するのをみてそこで完成されたといいます。

このアーティスト達から見えてきたのは糸を用いて表現することに人生をかけているからこの“人生”という言葉がよく出てきたんだと感じました。

学んだことと書きたいこと

この映画にはまず糸を用いて表現することに人生を謳歌している4組のアーティストの姿がありました。

しかしそこには手芸とアートの間にある偏見の壁や女性と男性という性別の壁など様々な障壁がありました。

これらを取り除くのはとても容易なことではないと伝わってきます。長い年月の間にいろんなものが根付いてしまっているからです。

堀内氏の話は日本の子供たちの調査から糸の選び方の工学的思考や自然界でのよくみられる六角形と糸の関係、共通点、かぎ針編みと棒状編みの違いなど映画の中でも一番面白かったです。

数か月前に「糸」を使った展示を見に行ったことがありましたが糸にはこんな隠された魅力や問題があるなんて知りませんでした。

よかったら観てみてください。余談ですが中島みゆきさんの「糸」て曲好きです。公式サイトはこちら。

www.yarn-movie.com

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YARN 人生を彩る糸(字幕版)

予告編はこちら

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『レゴ ブリッキュメンタリー』からレゴの歴史と魅力を学ぶ

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レゴの歴史と魅力から新しい可能性を感じさせてくれる映画

『レゴ ブリッキュメンタリー』からレゴブロックを通してレゴの歴史と魅力を学びました。デンマークとアメリカの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的には玩具会社LEGOの歴史やその魅力、どんなことに活用されているのかを楽しく紹介してくれるドキュメンタリー映画です。

レゴとは

僕も子供の頃遊んだことがあるレゴですが今回はそんなレゴの歴史や魅力を学べる映画と出会えたので書いていきます。まずはレゴについて少し調べてみましょう。

レゴ(デンマーク語: LEGO)は、デンマークの玩具会社、およびプラスチック製の組み立てブロック玩具のブランドである。

レゴ - Wikipediaより引用

世界中で5億人がレゴで遊んで育ったと映画では紹介されています。また地球上には1人当たり100以上のブロックが存在しているのです。

玩具会社LEGOについて

玩具会社LEGOとしての歴史を少し紹介していきます。レゴのところで書いたようにLEGOはデンマーク語です。会社名の由来は「よく遊べ」という意味のデンマーク語「leg godt」からきているそうです。

主な流れが映画で紹介されていたので簡単にまとめます。

  • 1916年 オレー・キアク・クリスチャンセンが木工所を作る→火事で焼失
  • 新しい木工所を作り玩具の製造の開始
  • 1934年 社名をLEGOに車、列車、アヒル等の引き回しおもちゃで有名に→再び火事で焼失
  • 1947年 新しい工場で木造玩具の製造をしていましたがプラスチック成形機と出会いシンプルな玩具を作る
  • 息子のゴットフレッドがブロックをシステムにしてレゴシステムができる
  • 1955年のブロックが現製品と接合する
  • 1960年 工場が火災
  • 度重なる火災にめげずに成長を続ける
  • 孫のケルがミニフィギュアを開発(初期は腕がない)
  • テーマがあるシリーズの販売、1分間で10万以上のブロックを製造

ざっくりこんな感じでした。もともとは木工所で木製の玩具を作成していたんですね。それにしてもこのLEGO社はとにかく火事にたくさんあっているように感じます。

息子の代で父の考え方からブロックをシステム化することに成功して孫の代でどんどん世界に広まっていったという感じでした。

  • 1978年 過去に類を見ない成長
  • 1990年代半ばまで順調
  • 1999年頃から破滅寸前になっていきます
  • 2003年 倒産の危機

3大商品のうち2つが売れなくなった事、苦手な人のために組み立てを簡単にした結果従来のファンが失望しそもそも組み立てが苦手な人はミニカーや人形を選んでいったのが理由だそうです。コミュニティーの拡大に会社は無関心でファンの買いたい商品を提供できていなかったのです。

それを変えたのがマインドストームだといいます。

デザインチーム

デザインチームの人のインタビューから色んな考え方がでてきましたが共通している部分も多くまとめてみます。

レゴというシステムの内部で考えるから可能性は無限ではないが制約があるおかげで試練とやりがいが生まれる。そして子供の心を忘ずに子供の視点で考える。子供でも年齢が違えば考え方や器用さも違う。といったことを述べていました。

そしてストーリから始まるといいます。キャラクターの人物像、生活環境などを決めることが出発点であり、そうすることで文脈がうまれ子供達に意味を与えていき想像力を解放する新しい方法を探すんだそうです。

マスター・ビルダー

マスター・ビルダーはブロックの組み立ての達人、専門家です。創造性と芸術性を追求してレゴの可能性を広げるのが仕事だといいます。

巨大なものを作る時の話がとてもおもしろかったです。コンピュータープログラムがありレイヤーを確認できるといいます。そして外からは見えませんが中は鉄筋構造になっていました。

制作までの流れが紹介されていたので簡単に書いておきます。デザイナー、モデルビルダー、技術者、技術開発者といろんな方とチームを組んでいました。

  • デザインの決定
  • 技術開発者により内部の鉄筋構造がくまれる
  • ブロックの製造
  • 組み立て

レゴのファンの多様性と用語

LEGO Fan Expoは世界各地で開催されています。そんなイベントからレゴのファンについて紹介されていました。

子供だけではなく大人にもレゴのファンは世界中にたくさんいます。大人のレゴファンのコミュニティーをAFOLと言うそうです。Adult Fan of Legoの略です。そして世界のレゴファンは独特な略称を使っていましたので紹介します。

  1. AFOL Adult Fan of Lego=大人のレゴファン
  2. KFOL Kid Fan of Lego=子供のレゴファン
  3. TFOL Teen Fan of Lego=10代のレゴファン
  4. NLOS Non Lego Significant Other=レゴ以外の重要人物
  5. MOC  My Own Creation=独自の創造物
  6. LUG   Lego User Group
  7. LTC    Lego Train Club
  8. GBC  Great Ball Contraption
  9. SNOT   Studs Not On Top=側面スタッド技術
  10. POOP   Parts Out Of Other Parts=別のパーツ由来のパーツ    
  11. CRAPP Crummy Ramp And Pit Plate=傾斜と穴がある板
  12. BURP    Big Ugly Rock Piece
  13. LURP    Little Ugly Rock Piece

こんな感じですごい独特なのです。子供から大人までたくさんの年齢層の人に愛されているのが分かります。そして女性のファンも増えてきたそうです。ただそれまで対象が男子だったレゴは女性ファンが少なく隠語が作られるほどでした。

「1×5」=レゴコミュニティーにいる美女のことを指すそうです。理由としては1×5のブロックが存在しないためそれくらい女性のレゴファンが少ないというところからきているのだと思います。

子供のレゴファンから見た大人のレゴファンについてこんなことを言っていました。レゴで遊ぶ大人は背の高い子供だそうです。それくらい童心を忘れずに創造力を働かせ夢中になっている人がたくさんいてそれだけの人を魅了するレゴはやっぱり面白いんだと感じました。

様々なレゴの楽しみ方

数学者からみたレゴ 組み合わせは無限なのか

デンマークのコペンハーゲン大学のソーレン・アイラース教授という方が紹介されていました。数学の教授の方です。

6つのブロックの組み合わせが計算中だが1億298万1000通りというのをきいてどうやってその数値にいきついたのか考え始めたそうです。

LEGO社が考えていったのは積み上げていった場合のみで横に広げていくと可能性はさらに広がっていくと教授は言います。

そしてそれを考慮してコンピューターに6つのブロックの組み合わせを計算させた結果9億1510万3765通りあるそうです。

5つまで計算するのはそんな難しくないそうですが7,8,9,10と増やしていくとその組み合わせを計算するのにかかる時間はものすごい年月になります。

そこから言えるレゴとは

数学上の定義では有限のシステムだが人間が組み立てる時その可能性は無限に近いという面白いものでした。

マインドストームからLEGO社の復活について

MINDSTORMS(マインドストーム)は、モーターを備えたプログラムが組み込めるブロックや、センサー、レゴブロック、ギアや車軸、ビーム、タイヤと言ったレゴ・テクニックの部品の組み合わせで、ロボットや他の機械、または対話システムを組むためのレゴ社の商品セットである。

MINDSTORMS - Wikipediaより引用

 倒産の危機までいったLEGO社の流れをかえたのがマインドストームでした。MITメディアラボはコンピューターとレゴの合体に可能性を見ていたとミッチェル・レズニック氏は述べていました。

これにより伝統的なターゲットとして見ていた子供だけでなくユーザーのアイディアの存在を受け入れ大人のファンも味方につけていくことに成功していきました。

ケル氏の言葉が印象的だったので紹介します。

創造の種をまくのがわが社の仕事だ

映画『レゴ ブリッキュメンタリー』より引用

CUUSOO、LEGO IDEASから新商品の提案

西山浩平氏によって「LEGO CUUSOO(レゴ クーソー)」という日本発信のレゴ新商品の提案サイトがあり、1万票以上の支持を集めるとLEGO社がアイディアを精査し認められると商品化されました、残念ながら現在はCUUSOOサイトは終了して「LEGO IDEAS」サイトでレゴの新商品を提案を募集しています。

ideas.lego.com

世界中のユーザーが商品化の希望を提示できるようになり賛同者同士でコミュニティーを構築できるようにもなりました。

独自パーツの販売

LEGO社の作らなそうなパーツを制作することによって隙間を埋めていくようなアイテムも発売されていきます。ブリックアームのオーナーのウィル・チャップ氏はレゴのミニフィギュアが装着できる武器を製造しました。

LEGO社は現代の兵器はレゴの哲学に合致しないから商品化していない、またデンマークには銃の所持が文化に根付いていないとも述べていました。

そしてウィル氏が兵器や銃のパーツを製造することにより歴史的な戦争や戦場などを表現する作品を作る大人のファンが登場してきました。

ブリックフィルム

ブリックフィルムとはレゴなどのプラスチックブロック玩具を使って作ったアニメーション映画。ストップモーション・アニメーションの一種[1]。なお、日本で「レゴブロック」と呼ばれるものは英語圏では「レゴブリック」(Lego Brick)と呼ばれており、ブリックフィルムの名称もこの名に由来する(ブリックとは英語で煉瓦のこと)。

ブリックフィルム - Wikipediaより引用

ブリックフィルム製作者の デヴィット・パガーノ氏によるとブリックフィルムには歴史がちゃんとあるそうです。特徴としてはミニフィギュアが主役のものが多いといいます。理由はいろんなポーズが取らせやすいからとのことです。

しかし既製品を使うと鼻がなくて人間に見えないなど、よりブロックの可能性、表現を重視したいと思うようになったと述べていました。

主な歴史を紹介してくださったので載せておきます。

  • 1960~70年 LEGO社の宣伝映像
  • 1980年代 ファンによる初作品「The Magic Portal」
  • 2000年代 レゴ映画全盛期

インターネットが誕生して現代のようなレゴアニメに繋がっていくといいます。たくさんの作品があり個性的なものから有名な映画や作品を再現したものも数多く存在します。その多さはYOUTUBEで検索すればHIT数に驚きます。

鑑賞者も制作者も増えているのは単純に面白いからだろうと述べていました。

レゴ療法

自閉症療法にレゴを使用したケースも紹介されていました。マサチューセッツ州にある施設のレゴフ博士はレゴ療法を開発しました。

きっかけは待合室にいた子供二人がたまたまレゴを見せあいをしていてその光景を親がまるで奇跡のように見ていたことからだそうです。

主に3人で共同作業としてレゴを使用します。技師、パーツ提供者、ビルダーと役割を分け協力しながらという条件のもと行った結果社交的になったなどの改善がみられたそうです。

学んだことと書きたいこと

たんなる玩具の枠をこえてレゴという存在は子供から大人まで魅了する1つのツールになっていました。

そしてそれをどう表現するか、活用するかは人それぞれ違うということです。

レゴを言語と考える人もいればアートだったり数学で考えたり、病院や宇宙開発等様々なところで使用されたりとレゴは活躍しています。

人間の創造力を育ててくれるレゴはこれからもいろんな形で未来のなにかと新しいものを生み出し続けて魅了してくれるのだろうと心が躍りました。

とても面白い内容だったので是非観てみてください。

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レゴ ブリッキュメンタリー A Lego Brickumentary (字幕版)

予告編はこちら

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メンタルクリニックのWAISの結果から自分を学んで活用する

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WAISの結果報告とそこから自分を学んで次につなげる話

前回の病院から4週間経過しまして、日付的には11月22日にWAISの結果を受け取りに通称ラーメンの上に行って来ました。自分の話になります。基本的には2019年10月25日に検査した成人用の知能検査の結果と最終的に自分がなんだったのかという話です。

WAISとは

 WAISに関してはこちらの記事で紹介したので良かったらどうぞ。

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詳しく知りたい方は「ウェクスラー成人知能検査」もしくは「WAIS」で調べてみてください。それでは今回の話に行きます。

自分の結果

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すろまる撮影 WAISーⅢの結果

なんかよくわからないけどこうなりました。ここに書かれている数値はIQだそうでここから色んな事が分かってくるようです。

親の証言、今回の結果等から先生が言うにはすろまるさんは「発達障害」ではないですという結論でした。

ただ上の画像からも分かる通り処理速度群指数という数値だけ他の数値にくらべて低いのが分かります。どうやら僕はこの処理速度というのが苦手なようです。

ちなみに結果から僕が最も得意だったのは「類似」であり苦手なものは「符号と組み合わせ」でした。

前回の記事でも多少触れましたが2018年にWAIS-Ⅳが出ていますがこちらの病院ではWAIS-Ⅲです。事情は僕には分かりません。

結果報告書の解説から自分を考えていく

 WAISについて調べてもらうと分かるのですが100に近いほど出現率が高くなります。

1981年には、16歳から74歳の9年齢群による1,880名のアメリカ人サンプルで、WAIS-Rが標準化された。この検査は高い信頼性を有しているとみなされている。

知能指数の平均は100、標準偏差は15である。約3分の2程度の成人の知能指数は85~115に含まれる。

ウェクスラー成人知能検査 - Wikipediaより引用

 というわけで約3分の2のいるところにほぼあてはまっています。では一番低かった処理速度群指数から分かっていったことを考えていきます。

「やることはわかっていてもできない、もしくは他よりペースが遅い」という状態が発生しやすいそうです。

なんかねこの報告書を読んでいくと涙出てくることがあるんですよ、自分が証明されていくような客観的に認められていくような、それに甘えてはいけないのですけど。そしてここからがとても自分でもなるほどと思うことが書いてありました。

考えることは得意だが実行するとなると比較的得意ではない部分が出てくる可能性があります。そしてその落差が大きいと問題が2つ発生します。

  • 頭で考えるよりも「できていない」という自己の認識が強くなる
  • 実際にできないことを頭の中で「できる」と勘違いしてしまう

という2つの問題が発生するわけです。つまり現在の自分の能力だと本当の自分の能力を客観的にみるのが下手なんです。そのために客観的にみれる指標を自分なりに作っていく必要があるというわけです。

これを克服しないと自分ではまだできないことを引き受けてしまったり、もう次のステップにいける段階なのにいつまでもそこで止まってしまうということになってしまうという危機感を感じましたし実際にそうやって生きてきました。

診察を通して

発達障害ではないということで自分のこの苦しみはどこからきているのだろうと先生に聞いてみたところ診断をつけるなら神経症だそうです。

なるほど、僕は神経症なのかぁと思って昨日は帰ってきましたが調べてみて驚きました。ものすごく種類があってどれがどれだかよくわからないのです。

かつて神経症と呼ばれた一群は、DSM-IV(第4版)では次のような診断名となっている[4]。

不安神経症→全般性不安障害、パニック障害[4]。
恐怖症→広場恐怖、社交不安障害、特定の恐怖症[4]
強迫神経症→強迫性障害[4]
心気症―そのまま[4]
ヒステリー→転換性障害、解離性障害[4]。
離人神経症→離人性障害、解離性同一性障害[4]。
抑うつ神経症→うつ病、気分変調性障害[4]。

神経症 - Wikipediaより引用

最初に行った病院では抑うつ状態ですということは言われましたが一応この中にもそれはあります。なので次回どれにあてはまる可能性があるのか聞いて来ようと思います。

患者さんごとにおそらく1つじゃなく色んなものが併合?してたり判断が難しいのだと思います。ただ僕は医者ではないのでとりあえず先生に聞いて来ようという段階が現状です。

学んだことと書きたいこと

WAISは発達障害の検査に用いられますが僕の場合は結果的に発達障害ではなく自分の能力を客観的にみる一つの指標、材料になってくれたものでした。

あくまでも参考にしながらも得意な部分を伸ばしていくか、苦手な部分を克服していくべきか、どういう風に生きていきたいか来週からのカウンセリングを通してしっかり自分の意見を整理しながら神経症と向き合っていこうと思います。

また薬物治療は現在やめています。もともとそんなに量を飲んでいたわけではないですし色んな治療法をすすめられましたがしばらくはカウンセリングで様子をみていきたいと考えています。

今回は個人的な報告とWAISから学んだ自分を通して次につなげていく話でした。ありがとうございました。4週間ぶりの病院でしたが次回は来週です。

前回のWAISを受けたときの記事はこちら

www.slpneet.workこの病院の初診の記事はこちら

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引きこもり改善のためにセロトニンを学んだ記事はこちらwww.slpneet.work

『グリズリーマン』のティモシー・トレッドウェルから人間と動物の向き合い方を学ぶ

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人間と動物の境界線を考えさせられる映画

『グリズリーマン』のティモシー・トレッドウェル氏からアラスカでのグリズリーとの暮らしを通して人間と動物の向き合い方を学びました。アメリカの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的には夏の間13年もの期間アラスカでグリズリーを追い続けた動物愛好家のティモシー・トレッドウェル氏の姿を描いたドキュメンタリー映画です。

グリズリーとは

まずこの映画の話に行く前にグリズリーについて調べてみましょう。

The grizzly bear (Ursus arctos ssp., or Ursus arctos horribilis), also known as the "North American brown bear", is a large population or subspecies[1] of the brown bear inhabiting North America.

Grizzly bear - Wikipedia より引用

 北アメリカに生息するクマ科の大型動物です。

ハイイログマのことでヒグマの一亜種です。日本でもグリズリーの名前は聞いたことある人はいると思います。

別名アメリカヒグマで内陸と沿岸で同種を区別して呼んでいる様ですが明確な基準はないそうです。

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ティモシー・トレッドウェル氏について

Timothy Treadwell (born Timothy William Dexter; April 29, 1957 – October 5, 2003) was an American bear enthusiast, environmentalist, and documentary filmmaker and founder of the bear-protection organization Grizzly People. He lived among grizzly bears of Katmai National Park in Alaska for 13 summers. At the end of his 13th summer in the park, in 2003, he and his girlfriend Amie Huguenard were killed and almost fully eaten by a 28-year-old brown bear, whose stomach was later found to contain human remains and clothing.

Timothy Treadwell - Wikipediaより引用

 

en.wikipedia.org

ティモシー・トレッドウェル氏は1957年に生まれ映画では動物愛好家と紹介されていましたが、ここではあくまでクマ愛好家となっています。

後に書いていきますがグリズリーピープルという保護団体の創設者で、カトマイ国立公園で13年もの主に夏の間グリズリーの生態を観察し続けました。

しかし13年目の夏が過ぎた10月ごろ一緒にいた女性と共にグリズリーに襲われ死亡しています。

そしてその生涯、仕事をヴェルナー・ヘルツォーク氏によって『グリズリーマン』として制作され今回はそれを僕は観たわけです。それでは映画の話にいきたいと思います。

野生動物の保護を世の中に訴えようとしていた

ティモシーの撮った映像

この映画ではティモシーが記録した映像がたくさん使われています。ティモシーは自分の活動を記録しいつか映画を作ろうと考えていたようです。ティモシーが映像を残し始めて亡くなるまでの最後の5年間の活動記録、日記、100時間以上の映像からティモシーとグリズリーを学んでいきます。

監督はティモシーが撮りたかったのは野生のグリズリーの生態だと述べています。そして監督自身も数多くの野生動物を撮ってきたそうですがティモシーの映像はただの記録映像とは違い美しい物語を感じたそうです。

映像には生きる喜びと重苦しい不安が描かれていた 自分の人間らしさを抑制してクマとの絆を結ぶことが彼の望みだった

映画『グリズリーマン』より引用

 人と動物との境界線を越えて絆を結ぶことを追い求めていたようです。

映像に残るティモシーが語るグリズリーと活動

冷静に対応することが大切だそうです。ティモシーは慌てたり弱さをみせるとこの世界では一瞬で命を落とすと言います。3m以上ある巨大なクマの姿にとても興奮していました。

彼は学校で子供たちに無償で野生動物の魅力を伝える活動をしていました。それくらいこの活動に使命を感じていたようです。

メディアに取り上げられるようになってきた彼はインタビューでこのように述べていました。取材した男性の反応は正気の沙汰じゃないといったような様子でした。

ティモシー「クマは誤解されている」

 男性「クマに殺されそうな状況でも丸腰でいるなんて信じられません」

ティモシー「命が危なくてもクマは殺さない 彼らの巣も荒らさないよ」

映画『グリズリーマン』より引用

ティモシーにとっての“聖域”と“グリズリーの迷宮” カトマイ国立公園

ティモシーはこの地を“聖域”と名付けました。そしてサケが上ってくる川を“グリズリーの迷宮”と呼んだのです。

“グリズリーの迷宮”においてはたびたび映像ないでも出てきます。ティモシーはクマを傷つける人間と戦いこの土地を守る英雄だと考えるようになっていきました。

しかしその“聖域”はあくまで連邦政府の管理下にあるカトマイ国立公園なのです。このあたりからただの動物への愛だけではない何かを僕はティモシーに感じ始めました。

www.gousa.jp

カトマイ国立公園 | GoUSA(参考サイト)

アメリカのオフィシャルトラベルサイトだそうです。カトマイ国立公園について口コミ等が載っています。良かったら見てください。

ちなみに月別で気温がみれるのですが記事を書いている11月はー1~4℃くらいの気温みたいです。

サイトに載っているようにグリズリーだけでなくキツネや魚、鳥など、たくさんの生物がいることが分かります。

ティモシーの動物への接し方 野生動物の擬人化

数々の映像を観ると感じるのですがティモシーはグリズリーや出会ったキツネ達の多くに名前をつけていきます。

そして映像の中でそれをとても嬉しそうに話すのです。僕はこの映画を2回みても見分けがつきませんでしたがティモシーは本当に判別している様に見えました。

あるシーンでグリズリーの「チョコレート」とキツネの「スピリット」とティモシーの3種が一緒に映るシーンがあります。たしかにその瞬間は野生動物と人間の境界をまるで感じないような映像でした。

現地で彼を見た人は“まるでクマのような人”だったと言います。うなり声をあげたりしていたようですが原因はわかりません。

ティモシーはキツネの「ティミー」との絆を語るシーンがあります。

「彼とは10年以上前に知り合ったんだ 僕の靴にオシッコをして一緒に歩き回った 僕の友達 ティミーだ 一緒に見張ってるんだ 彼の世話になってるよ 愛してる こうして野生の動物とも絆を結ぶことができるんだ 僕も野生的な人間だけどね」

映画『グリズリーマン』より引用

これらのシーンを通して僕はティモシーには野生動物と人間の境界がなく、まるでグリズリーやキツネを人間かのように接している様に感じてきます。そしてこれは複数の捉え方ができるのではないかということです。それについては後に書いていきます。

ティモシーからみた自分と過去

彼はこんな風に自分のことを語っている映像がありました。

「僕は争わず 受け身で信じやすい人間だ 女の子はそんなやつ嫌いかな?偉大な男なんだぜ 先は見えないが楽しい人生を送ってる」

映画『グリズリーマン』より引用

なんで女の子にモテないんだろうと悩みつつ自分について語るティモシーの姿はどこか寂しそうに僕には感じました。

そしてティモシーは昔、お酒に溺れていたことを告白します。そして禁酒プログラム等あらゆる手段を試しましたがどうしてもやめられず死にかけたそうです。両親の話では薬物にも苦しんでいた時期があったようです。

そんな中、ティモシーはクマの国があることを知りそして保護しないと危機的な状況にあることを知ったのです。そしてティモシーはクマとこんな約束をしたそうです。

「“君たちを救うから僕を救ってくれ”」

 映画『グリズリーマン』より引用

 そして活動に打ち込むことでお酒を断ちこれは動物たちのおかげだ、奇跡だと捉えたようです。彼は神秘的な存在になるために孤独を選んでいましたがたまに女性といたこともあったようです。最後の2年はある女性といたようです。

基本的に1人でクマを守ってきた彼のスタイルに反する行為であると監督は指摘しています。

両親と友人が語るティモシーの過去

少年時代は成績も中の上くらいだったとティモシーの母親は語っています。そしてリスの「ウィリー」という友達がいたようです。

友人は彼は薬物から立ち直ったあたりから転換期になったといいます。そして違う自分になろうとしていたそうです。出身地を偽り孤児だと嘘をつくようになったそうです。

ジュエルによるとたくさんの問題を抱えていたと言います。この友人たちの話から考えていくと人間の社会に対しての問題を抱えているような背景が徐々にはっきりしてきたように感じました。

ティモシーの考える調和のとれた世界と目の前で起こる現実の世界

ある映像のなかで彼の考えが覆されるものと出会います。

「オスのクマは時に子グマを殺す メスの授乳をやめさせ交尾ができるようにするためだ」

 映画『グリズリーマン』より引用

子グマの亡骸、捕食された子ギツネの亡骸を見てティモシーは「理解できない」と口にします。監督も指摘しますがここがすごく重要なポイントだと思いました。

このティモシーの言う「理解できない」は自然界における捕食動物の存在を否定していることに繋がってしまうからです。

そして徐々にティモシーは訪問者を侵略者と見るようになり人を守るために規則を作っていく公園管理局も敵として見るようになっていきます。法を破ってでもクマを守ってやると暴走が加速化しているように思えました。

ティモシーの死と周囲の意見を中立的に考える

2003年ティモシーは女性と共にクマに襲われて死亡しました。この女性については家族がコメントを拒否している様なのでここでは取り扱いません。

本来なら夏の探検を終えると帰還していたのですが空港でもめてキャンプ地に戻っていたようです。そのため10月にこの地に滞在していました。

そして28歳とおもわれるクマに襲われティモシーと女性は死亡します。内容が割とグロテスクなので伏せますが気になる方は調べてください。

彼の友人や元恋人等は肯定的な意見が多かったです。もちろん親しい関係であることはもちろんですが彼の生き方や活動を尊敬している様子も感じられました。

否定的な意見としては寄付金目当てに活動しているや誹謗中傷的なものがおおく余り参考になりそうなものはありませんでした。彼の遺体を運んだヘリコプターの操縦士の方の意見は彼の生き方は本望であったかもしれないが一緒にいた女性が気の毒だったという立場を示していて、この意見が関わっている人の中で数少ない意見だったと感じました。

医者で検視官のフランク・ファリコ氏はティモシーと女性の襲われたときの状況を検証しティモシーは自分が襲われている最中も必死に女性を守ろう、逃がそうとしていたとは述べていますがあくまで瞬間的(6分程の出来事だったそうです)な部分の意見でありティモシー自体の生き方には特に触れていません。

アルティーク博物館のスヴェン・ハーカンソン博士はアラスカ先住民とクマには7000年の歴史がありその境界線をティモシーは超えてしまったといいます。彼のクマになりたがる行為は守ろうとしてのことだろうがそれがクマの人間への警戒心を薄めたのではないかと考えていました。博士についてと博物館については以下に載せておきます。

Sven Haakanson(参考サイト)

Alutiiq Museum(参考サイト)

ラリー・ヴァン・ダエル氏というクマの研究家の方はたしかにクマを恐れて打ち殺してしまうような人間や密猟するものもいるが、ここ20年ではアラスカではほとんど起きていないと述べていました。彼については以下で紹介されていたので載せておきます。30年以上アラスカでクマの活動している方だそうです。

Larry Van Daele - Anchorage Daily News(参考サイト)

映画についてはこれで終わります。

学んだことと書きたいこと

最終的にはティモシーが行ってきた活動はとても尊敬できると僕は考えます。

ですが研究者や博士の方が言っているように中立的に考えることもとても重要だと思いました。

そして何より感じたのが彼は人間界で絆や愛を理解できなかったから動物界にそれを求めたように僕には映りました。そしていつの間にか愛すべき動物の中にも理解できないものができてしまったように感じます。

ティモシーの言った「理解できない」という捕食動物の存在の否定は動物を愛護しようとする立場の者としては差別的であり行き過ぎた暴走のように感じます。

動物を人のように愛したティモシーの生き方は素敵ですがそれがどこか歪んでしまった理由から生まれたようなものを感じました。

それでも彼は行動して亡くなってしまいましたがこうして記録に残っていることは監督の力もありますが凄いことです。

人間も動物でありグリズリーに限らず他種との境界線というのが何故作られてきたのかというのは一言では言えない長い歴史の上に成り立っていると思います。

いつの間にか人間が愛せなくなり動物を愛するようになりその動物に人間的な部分を重ね合わせているようにも捉えられるこのような境界線の無くし方がどうなのかはいろんな意見がありそうです。

ただどんな理由があったにせよ1種の生き物を心から愛せたのは人間に限らず充分凄いことだと思いました。

余談ですが最後に流れるDon Edwardsの『Coyotes』て曲とてもいいです。

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グリズリーマン (Grizzly Man)

予告編はこちら

www.youtube.com

『南の島の大統領』のモハメド・ナシードからモルディブを通して後発開発途上国としての気候変動問題の流れを学ぶ

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国のためCOP15に向けてモルディブの奮闘と歴史が学べる映画

『南の島の大統領』のモハメド・ナシード元大統領からモルディブを通して後発開発途上国としての気候変動問題の流れを学びました。アメリカの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的にはモルディブという国で2008年~2012年まで大統領を務めたモハメド・ナシード氏が取り組んだ気候変動問題の取り組みについてのドキュメンタリー映画です。あくまで前政権の問題から2009年にコペンハーゲンで行われたCOP15までの取り組みが学べる映画です。

モルディブについて

新婚旅行地等で名前を聞いたことがある方もいるかもしれませんが僕は知らなかったのでまずモルディブってどこなのか調べてみました。

モルディブ共和国(モルディブきょうわこく、ディベヒ語: ދިވެހިރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ, Dhivehi Raa'jeyge Jumhooriyya)、通称モルディブは、アジアのインド洋にある島国で、インドとスリランカの南西に位置する。

モルディブ - Wikipedia より引用

 インドとスリランカの南西にあるようなので地図を見てきました。

Google マップ (参考地図モルディブの場所)

たしかにインドとスリランカの南西にありますが1つ1つの島はとても小さいです。26の環礁とその中の約1,200もの島からなる熱帯の国で人がいる島は約200ほどあるそうです。綺麗な海やサンゴ礁があり上にも書いた通り日本では新婚旅行地としても名前が上がります。詳細については以下に載せておきます。

モルディブ諸島(参考サイト)

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モルディブで起きている問題 国が沈む

この映画で主に扱われた気候変動問題のことですが地球温暖化についてが主になります。これによりモルディブは深刻な問題を抱えています。

気候変動(きこうへんどう、英: climatic variation)は、様々な時間スケールにおける、気温、降水量、雲などの変化を指し示す用語として、広く用いられている。特に環境問題の文脈では、地球の表面温度が長期的に上昇する現象、すなわち地球温暖化とその影響を、包括的に気候変動とよぶことが多い。

気候変動 - Wikipedia より引用

地球温暖化によって海水面が上昇します。海水面が上昇する主な原因は海水の熱膨張と南極やグリーンランドの氷床の融解があります。

モルディブの海抜は最高2.4mで映画によると平均海抜1.5mと言われていてとても平坦な地形です。そのため地球温暖化によって海面が1m上昇するだけでモルディブにとっては深刻な問題になります。

また前に記事でとりあげましたがサンゴ礁の死滅も国土消滅の要因の1つとなっています。サンゴ礁の問題について取り扱った時の記事はこちら。

『サンゴ礁の冒険』のサンゴから環境問題を学ぶ - ニートが好きだね?

海抜の最高が2.4mという平坦な地形であるため、近年の海面上昇と珊瑚礁の死滅により、国土が消滅する危険にさらされている。海面が1メートル上昇すると国土の80%が失われると言われる。

モルディブ - Wikipedia より引用

 この映画はこの様な問題を抱えた中で大統領になったモハメド・ナシード氏の活動を追ったドキュメンタリー映画なのです。

1978年11月11日~ガユーム大統領時代のモハメド・ナシード氏

モハメド・アンニ・ナシード氏について

Mohamed Nasheed, GCSK (Dhivehi: މުހައްމަދު ނަޝީދު; born 17 May 1967) is a Maldivian politician, who served as the fourth President of the Maldives from 2008 to 2012.[1][2] He was the first democratically elected president of the Maldives and one of the founders of the Maldivian Democratic Party.

Mohamed Nasheed - Wikipedia より引用

2008年~2012年まで大統領を務めたわけですがモルディブで初めて民主的に選出された大統領です。またモルディブ民主党の創設者でもあります。

1978年~あまり知られてこなかったモルディブの歴史 ガユーム政権時代

1978年11月11日に第2代大統領としてガユームが就任します。それからモハメド・ナシードが2008年の選挙に勝つまではモルディブはマウムーン・アブドル・ガユーム氏によって長期独裁政権でした。

いまでこそリゾート地や天国のようと言われているモルディブですが当時はその美しい島で拷問が行われていたと言います。元政治犯アーメド・ナシーム氏の証言を引用します。内容がキツいので注意してください。

 

注意

囚人は逆さづりではちみつを塗られアリに食われてた 砂の中に埋められて何日も雨や太陽にさらされた者も 5年の拘禁期間にこの目で目撃した

映画『南の島の大統領』より引用

 反対勢力はなく99%の支持率を常に保っているような状態でした。

1989年にイギリスから帰国したモハメド・ナシードは「サング」と呼ばれる雑誌を作り政権を批判します。主に取り扱ったのが

  • 汚職
  • 人権侵害

の2種類でした。その結果、強制捜査され自白を拒否したためモハメド・ナシードはドゥーニドゥー刑務所に連れて行かれました。ドゥーニドゥー刑務所については以下に載せておきます。

Dhoonidhoo (Dhivehi ދޫނިދޫ, selten Dunidu), bekannt als Dhoonidhoo Prison Island, ist eine Insel der Malediven im Nord-Malé-Atoll, die als Gefängnisinsel genutzt wird.

Dhoonidhoo – Wikipedia より引用

 20年間で12回逮捕されたとモハメド・ナシードは語っています。

2003年~6期ガユーム政権

ある青年が拷問によって死亡します。その遺体を母親が一般公開したことにより民主化の流れに一気に火が付いた大きな転機だったと言います。そして国内で暴動が起こり始めるのです。

2004年~スマトラ沖地震

それにより政府は非常事態宣言を出します。モハメド・ナシードは自分の身を守るため亡命しました。民主化に向けて国外で活動をしていましたが結束は固かったと言います。

そんな国が揺らいでる中スマトラ沖地震による津波で国は大きな被害を受けます。この時のことをモハメド・ナシードは以下のように述べています。

 2004年 津波で国の大半が打撃を受けた 島が廃墟と化した 津波によって気候の問題を痛感した この国での暮らしの危うさを実感した

映画『南の島の大統領』より引用

 津波は人命を奪いさらに国としては当時のGDPの半分を消滅させたと言います。これにより政権は危うくなりヨーロッパに援助を求めます。各国から出された援助の条件が政治改革でした。

ガユーム大統領は一時的に態度を和らげたものの本質は変わらなかったようです。

2005年4月~モハメド・ナシード帰国

亡命先で民主党を結成しましたがそれだけでは不十分だと判断したナシードは帰国して改革運動を進めます。

そしてファレスマソダをはじめ国中の島でデモが広がり規模がどんどん大きくなり公正な選挙に繋がっていきました。

改革には再選が必要だと言うガユースに対してナシードは30年もやってきたのだから5年伸びても何も変わらないだろうと語っています。

2008年10月29日・11月11日 モハメド・ナシード大統領へ

2008年の10月29日に民主化後初の大統領選挙が行われました。開票率75%の段階でナシードの勝利が確定し11月11日大統領に就任します。マーレに集まった人々は手を取り合って歌を歌い祝福したそうです。

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2008年11月11日~ナシード大統領時代

着手しはじめる気候変動問題

民主化を達成したナシードは最初の閣僚会議でこの国にとって大きな問題は気候変動であるとしました。気候変動は漁業に打撃を与えていて島を削り島を水没に向かわせていたのです。

2年の間に前政権の方法ではお金が誰かのポケットに入る仕組みになっておりそれを取り戻すことによって自国の再建にあてるべきだと行動をはじめるのです。あくまで自国の問題は自国の財源で賄うべきだという立場です。

モルディブと他国との違い

気候変動問題自体は地球の問題であることはもちろんですが同じような問題を抱えているオランダやナイジェリアとはどのような違いがあるのか気候変動問題担当官のアミナス・シャウナ氏はこう述べています。

モルディブは独特よ 国も主体性も文化も何もかも失うことになる オランダやナイジェリアいろんな国があるけれどアイデンティティー自体を失う国はない 私たち以外は

映画『南の島の大統領』より引用

 3千年前から海と共にそこで生き暮らし文化、言葉、文明を築き上げてきたモルディブにとってすべてを失うことに繋がりかけているのです。

2009年 漁業の打撃

2005~2007年にかけて漁業は著しく落ち込んでいました。気候変動により雨不足や季節風に変化が起こり海の潮が変わらなくなったのです。それにより収穫量はものすごく落ち込んでいました。映画内では通常1日3~3.5トンの水揚げ量が0.5トンまで落ちていると言います。そして2009年が南部の漁師にとって過去最悪の年になりました。

カーボンニュートラル宣言

モハメド・ナシード大統領はモルディブを世界で初めての「カーボンニュートラル」な国にすると宣言しました。10年後までにCO2の吸収量と排出量を相殺すると表明したということです。カーボンニュートラルについては以下に載せておきます。詳しくは調べてみてください。

何かを生産したり、一連の人為的活動を行った際に、排出される二酸化炭素と吸収される二酸化炭素が同じ量である、という概念。

カーボンニュートラル - Wikipedia より引用

コペンハーゲンに向けての課題

世界で初めてカーボンニュートラル宣言を表明したとはいえCO2の主要排出国であるアメリカ、中国、インド、ブラジル等をどう説得するか具体的な解決策が何もない状態だったのです。

コペンハーゲンのCOP15の場はモルディブという小さい国にとっては世界に発信できる非常に重要な会議なのです。

イギリスに訴えかけたナシードは小国であることを有利にしたいと考えていました。国際社会を味方にしようと奮闘するのです。

AOSIS首脳会談と2つの目標

小島嶼国連合(しょうとうしょこくれんごう、英語:Alliance of Small Island States、略称AOSIS)は、小規模な島や沿海部の低地を有する国々によって1990年に設立された連合である。気候変動により大きな影響を受ける参加国や地域のデータを収集し、意見を集約することが主な目的とされている。

小島嶼国連合 - Wikipedia より引用

参加国の中にモルディブがちゃんとありました。独立20周年にあたるAOSISの首脳会議で様々な島国に声をかけていきます。先進国に禁止する文言ではなく行動を促すようなものにしていかないと同意はえられないと発言していきました。

国連気候変動首脳会合

2009年9月ニューヨークで行われたこの会合でナシードは先進国にクリーンエネルギーの生産を促し気温上昇を1.5度に抑えCO2濃度350ppm以下の2つを目指すことを要求します。

また10月17日に島の問題を知ってもらうために政府が世界で初めて海中閣議を開催しました。以下のサイトで詳しく紹介されていたので良かったら読んでください。

www.afpbb.com

11月インドと話し合いを行うもインドとしては先進国が悪者のように扱われている、さらにインドばかり言われるという意見でした。話はまとまらないままCOP15の日は迫ってくるのです。

COP15 第15回気候変動枠組条約締約国会議とコペンハーゲン合意

2009年12月7日から18日にかけてコペンハーゲンで行われています。COP15について以下に載せておきます。

第15回気候変動枠組条約締約国会議(だい15かいきこうへんどうわくぐみじょうやくていやくこくかいぎ、Fifteenth Session of the Conference of Parties to the United Nations Framework Convention on Climate Change)は、2009年12月7日から12月18日の日程でデンマーク・コペンハーゲンのベラセンターで開催された、京都議定書に続く、温室効果ガス排出規制に関する国際的枠組を決定することを主な目的とした国際会議である[1]。通称COP15。

第15回気候変動枠組条約締約国会議 - Wikipedia より引用

また中国メディアのインタビューにナシードはこのように答えています。

記者「中国人はモルディブを理解しつつありますが地球温暖化は陰謀だと言う人もいます モルディブは受益者だと」

ナシード「地球が丸いことを信じない人もいるし人類の月面着陸を信じない人もいる 懐疑論者が何と言おうと現実に問題が起きている」

映画『南の島の大統領』より引用

鍵を握るのはアメリカではないかという質問に対してもアメリカもだが中国の取り組みに理解を示しつつももっと努力が必要であるとしっかり返答していました。

そして各国の提案はモルディブの希望には及ばないものでした。ここで意見が分かれていきます。350と1.5度いう数字を妥協してでも合意を得るべきか考えるのです。そして各国の首脳を説得して回ります。

そして19日の午前4時28カ国が合意をしてコペンハーゲン合意作成したものの一部の国が反対したため表現を弱めた文書で採択されました。全文は先ほどのCOP15のリンクに載っているのでよかったらどうぞ。法的拘束力がある文書ではないもののナシード氏は合意のために尽力しました。

2012年2月 モハメド・ナシード大統領辞任

前政権支持勢力のクーデターが原因だったそうです。これに対しナシード氏は以下のように述べています。

“安定した民主政治がなければ気候変動運動に取り組むのは困難だ”

映画『南の島の大統領』より引用

映画はこれで終わります。

その後のモルディブ

その後モルディブは中国の巨大経済圏構想「一帯一路」に関わっていくことになっていくわけです。

この記事を載せておきます。

どうなる? 「中国人の楽園」と化したアイランドリゾート、モルディブの「悪夢」は続くのか?(山田順) - 個人 - Yahoo!ニュース(参考サイト)

スリランカで起こったことと同じようなことがモルディブでも起こっていたようです。そして中国マネーによりインフラ整備が行われたもののアメリカに民主主義の後退を憂慮されます。

そしてその後2018年9月23日の選挙でイブラヒム・ソリ氏が大統領になりインドから14億ドルの融資と通貨スワップの提供をとりつけ中国依存路線を修正したという流れになります。

学んだことと書きたいこと

前半は主にモルディブの民主化の流れが学べました。

そして民主化されてから浮き彫りになった気候変動問題と環礁と島からなる国の消滅危機に取り組んでいく姿が後半にありました。

当時は後発開発途上国であったモルディブながらも先進国にしっかり発言していく姿は本当に国の危機を背負って行動している様子がわかりました。

ちょうどサンゴ礁の問題と月面着陸について学んだところだったので関連したことがでてきて驚いています。

その後のモルディブは一度中国の一帯一路の流れにいきその路線は修正したようですが今後のモルディブの動向をCOPと共に観察していこうと思います。

貴重なことを知れる映画を作ってくださってありがとうございました。

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南の島の大統領 ?沈みゆくモルディブ?(字幕版)

予告編はこちら

www.youtube.com

 

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『イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス』のデボラとレベッカからHeLa細胞を通してヘンリエッタ・ラックスを学ぶ

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ヘンリエッタ・ラックスの親族からみたHeLa細胞が学べる映画

『イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス』のデボラ・ラックスとレベッカ・スクルートからHeLa細胞を通してヘンリエッタ・ラックスについて学びました。アメリカの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的にはHeLa細胞の名前の由来になった原患者氏名ヘンリエッタ・ラックス氏とその親族の人生を娘のデボラ・ラックスとフリーランスのライターのレベッカ・スクルートと共にたどっていく実話に基づいた映画です。

ヘンリエッタ・ラックス氏について

まずはヘンリエッタ・ラックスについて調べてみました。これを読んで思ったことを素直に書いていきます。

Henrietta Lacks (born Loretta Pleasant; August 1, 1920 – October 4, 1951)[2] was an African-American woman[3] whose cancer cells are the source of the HeLa cell line, the first immortalized human cell line[4] and one of the most important cell lines in medical research.

Henrietta Lacks - Wikipedia より引用

ヘンリエッタ・ラックスは1920年8月1日生まれで1951年10月4日に亡くなったアフリカ系アメリカ人の女性です。彼女の癌性腫瘍から取り出された細胞が培養されHeLa細胞という世界で初めてのヒト培養細胞株として知られ医学研究っで最も重要な細胞株の1つとして様々な研究に大きな貢献をしています。

つまりヘンリエッタ・ラックスについて調べると常にHeLa細胞のことがついてまわるわけです。そして関心は世界で初めてのヒト培養細胞株という方に移っていきます。

この映画はヘンリエッタ・ラックスがどういう人だったのかをHeLa細胞がメインではなく彼女について描かれた映画なのです。

原作と著者レベッカ・スクルート氏について

映画にも登場するレベッカ・スクルート氏について調べてみました。

Rebecca L. Skloot /ˈskluːt/ (born September 19, 1972) is a freelance science writer who specializes in science and medicine.[2] Her first book, The Immortal Life of Henrietta Lacks (2010), was one of the best-selling new books of 2010, staying on The New York Times Bestseller list for over 6 years and eventually reaching #1.[3] It was made into a movie by George C. Wolfe, which premiered on HBO on April 22, 2017 and starred Rose Byrne as Skloot, and Oprah Winfrey as Lacks’s daughter Deborah.

Rebecca Skloot - Wikipedia より引用

最初にも少し触れましたがレベッカ・スクルートは1972年生まれのフリーランスの科学や医学を専門としているライターです。

2010年に最初の著作『The Immortal Life of Henrietta Lacks』を書きました。それがニューヨークタイムズのベストセラーリストに6年以上載って1位をとったとあります。さらに2017年の4月22日に映画になったわけです。この映画について今回は書いていきます。彼女は「ヘンリエッタ・ラックス財団」を設立しています。

Rebecca Skloot(参考サイト)レベッカ・スクルートのHPになります。

本については内容が被るので少しだけ載せておきます。ノンフィクションの本で邦訳は『不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生』(2011年、講談社)となっています。

The Immortal Life of Henrietta Lacks (2010) is a non-fiction book by American author Rebecca Skloot.

The Immortal Life of Henrietta Lacks - Wikipedia より引用             

 

不死細胞ヒーラ  ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生

不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生

 

 

1951年HeLa細胞の誕生

HeLa細胞とは

1951年にジョージ・ガイ博士によって発見されました。

HeLa細胞(ヒーラさいぼう)は、ヒト由来の最初の細胞株。in vitroでの細胞を用いる試験や研究に幅広く用いられている。1951年に子宮頸癌で亡くなった30代黒人女性の腫瘍病変から分離され、株化された。この細胞の名称は、原患者氏名ヘンリエッタ・ラックスから命名された。

HeLa細胞 - Wikipedia より引用

 僕は医者でも学者でもないので詳しくはちゃんとしたところで調べてください。

Henrietta Lacksの名前から来てるのはこれで分かると思います。ではどんなことに活用されたのか映画の冒頭で紹介されたので簡単にまとめます。時系列順です

  • 1954年販売開始 生物医学産業の誕生 ポリオ・ワクチンの開発
  • 1965年 “遺伝学”
  • 1971年 “結核”“癌の研究”“白血病”
  • 1981年 “疱疹”“体外受精”
  • 1985年 “インフルエンザ”
  • 1988年 “エイズ”
  • 1989年 “パーキンソン病”
  • 1996年 “化学療法”“HPV”

のようにとても独特な始まり方でした。そして様々な単語のH・E・L・Aの文字だけ意図的に色を濃くしてたのも印象的でした。それだけこのHeLa細胞は影響を与えたということはそれだけお金も動いたということです。

1999年~ 

レベッカ・スクルートの動機

生物学の授業で不死細胞について知ったそうです。そこで彼女は黒人女性の細胞により医学が躍進したと学びました。

しかし細胞のことばかりで彼女自身については詳しく分かりませんでした。それ以来頭から離れませんでした。そこでモアハウス医科大学のパティロ先生を訪れ娘のデボラ・ラックスと連絡を取れるよう手配してくれないかと頼むのです。

そしてレベッカはヘンリエッタ・ラックスの人柄や人生について本を書きたいとデボラに伝えます。

デボラ・ラックスの動機

デボラは幼い頃に亡くなった母のヘンリエッタ・ラックスについて誰よりも知りたがっていました。兄弟もみな幼く記憶が曖昧であまりわからなかったのです。そんな自分の母について知れるかもしれないという思いからスクルートに協力していきます。

ラックス家の家系図と兄弟の想い

また登場人物が多くてややこしいので『聖なる呼吸法』のとき同様に画像作ってきました。

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制作すろまる (参考資料)映画『イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス』

つまり子供は5人います。そしてデボラと他の兄弟で考え方にすこし違いがありました。共通しているのは母の扱いにたいして現状に不満を持っていることです。デボラはお金ではなく母のこと、姉のことがとにかく知りたい、本当のことが知りたいという想いがとにかく強かったです。

他の兄弟はもちろんデボラ同様母を思いつつも病院の対応に納得がいかず金銭のことを考えている様子もありました。

グラディスとセィディー 1942年引っ越し

グラディスはヘンリエッタの姉妹にあたります、セイディーはいとこだそうです。そんな2人のところへ会いにデボラとレベッカは訪れます。

そこで聞けたのは若き日の母の話でした。今まで知らなかった母の記憶にとても心が躍っていました。ヘンリエッタは誰にでも平等に接していたといいます。

ヘンリエッタの家と墓

住んでいた家を訪ねると木製で床はワラでした。その裏にはヘンリエッタの母イライザ・プレザントのお墓がありました。ヘンリエッタが4歳の時に亡くなったようなので1924年のことになります。

そしてその近くの石の下にヘンリエッタと長女エルシーはいます。デボラは祈りを捧げていました。

長女エルシーについて

デボラはエルシーの写真を大事に持っていました。そしてセイディーから何故、精神病院に入れられたのか理由を聞きます。セイディーは以下のように述べていました。

セイディー「自分では何もできず ヘニーが全て世話をしてた 大勢の伝道師に祈祷してもらったけど 効果なし ある時 エルシーが通りの真ん中に走り出してね ヘニーは凍り付いたもんさ」

レベッカ「どうして入院させたの?」

セイディー「限界だったんだ 赤ん坊を2人抱えおなかにはザカリヤがいて どうしようもなかった 入院させた日にはひどい悲しみようだったよ」

映画『イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス』より引用

 姉の入院にやむを得ない事情があったみたいです。

出版においての意見の相違と兄弟間の意見の相違

取材を続けていくうえで出版してくれるところをレベッカは見つけます。しかし心に障害を持つ長女、前科のある三男、数々の疾患を抱え躁うつ病の二女と契約するなら家族は描かずに仕上げてくれと言われます。出版に求められているのはHeLa細胞の部分ばかりなのです。

意見の相違から契約を解消します。あくまでヘンリエッタとその家族について書くのが目的だからです。

また兄弟間でも意見が食い違ってきます。デボラはヘンリエッタを知るためにホプキンスの病院に行こうと考えていました。しかしソニーやローレンスは病院の対応に未だ納得できず意見が食い違います。

そしてある疑惑がレベッカに向けられてしまうのです。それはレベッカは誰かから資金をもらっていたり病院の回し者なのではないかという疑惑です。

衝突するデボラとレベッカ 心が壊れた理由

兄弟たちに言われ疑いをもったデボラはレベッカに確認をしにいきます。そして数々の疑惑をぶつけたところなんとか証明します。

  • いつか財団を作ろうと考えている
  • 誰からも金銭は受け取っていない
  • カードの支払いが2000ドル滞ってる
  • 口座に87ドルしかない

何故ここまで疑いを持っているのかにはある理由がありました。それはレベッカが取材にくる直前のことです。詐欺師が弁護士を語り家族を騙したのです。ずっと虐げられて生きてきたラックス家にとって彼が救いに見えてしまいました。

そして気づいたころには逆に裁判を起こされてしまったのです。悲しくもその資料の中で初めてエルシーが亡くなった病院を知りさらに母の写真と検視報告を見てしまいます。それがデボラの心を壊しました。

デボラは偏執症、統合失調症、不安神経症に苦しめられたと言います。実際に映画内でも躁うつ病のように心にものすごく波がある様子が描かれています。

母ヘンリエッタの医療記録はデボラにとって形見であり数少ない心の支えになっていたのです。

クラウンズヴィル・ホスピタル・センター

デボラとレベッカはその資料にあったエルシーがなくなった病院を訪れます。とりあえず調べてみました。

The Crownsville Hospital Center is a former psychiatric hospital located in Crownsville, Maryland. It was in operation from 1911 to 2004.

Crownsville Hospital Center - Wikipediaより引用

 1911年~2004年まで稼働していたメリーランド州にあるクラウンズビル・ホスピタル・センターという精神病院です。

そして下の方をしらべていくとある部分を見つけました。

Elsie Lacks (born Lucille Elsie Pleasant) was the second-born and eldest daughter of Henrietta Lacks, who was the source of the famous HeLa cell line. Elsie was institutionalized here for epilepsy until she died in 1955 at the age of 15.

Crownsville Hospital Center - Wikipediaより引用

エルシー・ラックスについての記載があります。1955年15歳でなくなるまでここにいてHeLa細胞で有名なヘンリエッタの長女であると。入院理由については映画と少し違いがありそうなのでここでは割愛します。

この病院は1963年まで黒人専用だったそうです。当時この病院ではアスベスト汚染が発覚し悲惨な状態だったと言います。数少なく残っていた検視報告からエルシーの記録を見つけます。そこにはエルシーの写真が残っていました。

衝突するデボラとレベッカ 2回目 暴走

病院から戻った2人は100ページ以上ある資料を調べ始めます。しかしその内容は聞くに堪えないものもたくさんありました。エルシーの検視報告書に残っていた写真の理由、その意味を理解しデボラはまた不安定になります。

レベッカと再び衝突してしまうのです。そして限界にきたレベッカもデボラに対してきつい言葉をぶつけてしまいました。

翌朝反省した二人は仲直りをします。そしてこの衝突は記録に残すよう約束しました。まるで躁状態に入ったかのようにつぎつぎとアイディアを出しながら猛進します。ヘンリエッタの墓にエルシーとヘンリエッタの資料をもって3人が揃いました。

そんな時デボラは幼少時代の記録を鮮明に思い出すのです。ヘンリエッタが亡くなった後子供たちはエセルという女性に引き取られます。

しかし彼女は子供たちを憎んでいたそうです。そしてその中でも三男のザカリヤが暴力を受けるなどの虐待を受けていたそうです。またエセルの夫のエレインからデボラは暴行を受けていたと言います。

セイディーに救いを求めるまでこの生活は続いたようです。そしてこんなことがなければザカリヤはもっと優しい子になったはずだと嘆きます。

妄想と事実で壊れた心に神からの言葉で落ち着かせます。

セイディーとデボラ 告白と母の愛

デボラが目を覚ました時セイディーは近くで見守っていてくれました。そしてヘンリエッタから癌の告白をされたときのこととヘンリエッタの愛のことを話します。とても印象的だったので紹介します。1時間20分くらいのシーンです。

セイディー「ヘンリエッタ『約束して 子供たちを守ってちょうだい 特にデボラのことを ほんとは髪を結い可愛い服で着飾らせてマニキュアの塗り方や男性の扱い方も教えたかった』」

セイディー「ヘニーは朝 目覚めればお前のことを考え眠りにつく時にはお前のことを神に祈ってた」

映画『イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス』より引用

母からとても愛されていたことを知ったデボラは落ち着きを取り戻します。そして母が訪ねた病院に向かうのです。

ジョンズ・ホプキンズ病院

デボラとレベッカは病院のクリストフを訪ねます。そして遅れてザカリヤも合流しました。クリストフは長年HeLa細胞を使って研究してきたそうです。

1951年にヘンリエッタが訪れた場所に約50年の時を経てデボラとザカリヤは母に会いに来たのです。デボラの母はこう想ったのではないだろうかと想いながら病院を歩く姿は何とも言えませんでした。

そして初めて母の細胞を見て母に語り掛けます。

デボラ「 母さんは有名人よ それを誰も知らないだけ」

映画『イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス』より引用

 顕微鏡で観察し映し出された母とデボラ、ザカリヤが1つになる瞬間はやっとわからなかった家族の繋がりを2人なりに見つけた瞬間のように感じました。

2010年(2009年)~

そして出版へ

デボラ・ラックスは2009年5月12日出版される前に亡くなりました。

2010年『The Immortal Life of Henrietta Lacks』は約6年もの間ベストセラーとなりレベッカは「ヘンリエッタ・ラックス財団」を同年創設しました。 

The Immortal Life of Henrietta Lacks

The Immortal Life of Henrietta Lacks

 

 日本語版はこっち 

不死細胞ヒーラ  ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生

不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生

 

書きたいこと学んだこと

まずHeLa細胞という存在を初めて知りました。その細胞が医学に与えた影響の凄さに本当に驚きました。

ただ僕は医者でも学者でもないので細胞としての偉大さはそこまでわかりません。

ですがこの細胞には1人のアメリカ人ヘンリエッタ・ラックス氏とその家族達の歴史がありレベッカ・スクルート氏のおかげで今回僕は知ることができました。

自分の家族のことや家系のことは学生の頃にすこし調べたことがあるのですがそういうものの大切さを思い出させてくれる作品でもありました。この映画を作ってくださってありがとうございました。

今回あえて画像を使っていません。

レベッカ・スクルート氏のHPで本等に載っていない写真を閲覧することができます。映画に出てきた細胞の写真や顕微鏡を覗く姿、クラウンヴィルズ・ホスピタル・センターの空の棚、CLOVERのヘンリエッタの家や墓等たくさんの写真を見ることができます。

Rebecca Skloot(参考サイト)レベッカ・スクルートのHPになります。Book Special FeaturesのMoreのところを押すことで画像が見れます是非見てみてください。

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イモータル・ライフ・オブ・ヘンリエッタ・ラックス (字幕版)

予告編はこちら

www.youtube.com

『ファースト・マン』のアームストロングから月面着陸までの流れを学ぶ

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NASAによる人類初の月面着陸までの流れを学べる映画

『ファースト・マン』のニール・アームストロングからジェミニ計画とアポロ計画を通して人類初の月面着陸までの流れを学びました。アメリカの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的には人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロングの1961年から1969年までのNASAでのミッションを実話に基づいて描いた映画です。

1969年7月21日 人類初の月面着陸と2種類の日付時刻について

とりあえず簡単に月面着陸について触れておきます。

月面着陸(げつめんちゃくりく、英: Moon landing)は、地球の衛星である月への着陸をいう。英語では他に、lunar landing とも。人類史上初の月面着陸は、アメリカ合衆国のアポロ11号計画における船長ニール・アームストロングと月着陸船操縦士エドウィン・オルドリンによるものだった。

月面着陸 - Wikipedia より引用

 調べてみて気づいたのですが日付が7月20日というものと21日というものの2種類があります。これについて考えたのですがおそらく基準にしている時間が違うか船が月に着いた時間か人が降りた時間の違いから混同しているだという結論に至りました。

以下の文にUTCという文字が確認できると思うのですがこれは協定世界時間のことを指します。そして7月20日のものはEDT東部夏時間を採用していました。

このブログではUTCの1969年7月21日2時56分が人類が降り立った時間で7月20日の20時17分は「イーグル」号を月に着陸させた時間として話を進めます。

Still frame from a video transmission, taken moments before Neil Armstrong became the first human to step onto the surface of the Moon, at 02:56 UTC on 21 July 1969. 

Moon landing - Wikipedia より引用

ニール・アームストロング氏について

Neil Alden Armstrong (August 5, 1930 – August 25, 2012) was an American astronaut and aeronautical engineer and the first person to walk on the Moon. He was also a naval aviator, test pilot, and university professor.

Neil Armstrong - Wikipedia より引用

ニール・オールデン・アームストロングはアメリカ合衆国の宇宙飛行士の方です。そして人類で初めて月面に降り立った人物になります。

この映画はそんな彼が月に降り立つまでの流れを描いています。それでは映画の話にいきます。

1962年(1961年)テストパイロット時代

映画の冒頭カリフォルニア州モハべ砂漠に緊急着陸シーンがあります。

調べてみると以下の文と共通しているところが多かったのでこのことを基にしたものと思われますが実際には1962年の出来事だそうです。

Armstrong was involved in several incidents that went down in Edwards folklore or were chronicled in the memoirs of colleagues. During his sixth X-15 flight on April 20, 1962, Armstrong was testing the MH-96 control system when he flew to a height of over 207,000 feet (63 km) (the highest he flew before Gemini 8). He held up the aircraft nose for too long during its descent to demonstrate the MH-96's g-limiting performance, and the X-15 ballooned back up to around 140,000 feet (43 km). He flew past the landing field at Mach 3 at over 100,000 feet (30 km) in altitude, and ended up 40 miles (64 km) south of Edwards. After sufficient descent, he turned back toward the landing area, and landed, just missing Joshua trees at the south end. It was the longest X-15 flight in both flight time and length of the ground track.

Neil Armstrong - Wikipedia より引用

X-15の試験飛行をしていた際に高度14万フィートでは大気が薄く翼が役に立たず制御出来ていない様子でした。

なんとか緊急着陸させましたがエドワーズ空軍基地から64kmも離れた場所まで行ってしまったようです。Joshua treesを調べると分かりますがYuccaと呼ばれていてそこからこの映画のモハベ砂漠のシーンと関連していることが分かります。

エドワーズ空軍基地について詳しくは調べてください。

エドワーズ空軍基地 (参考サイト)

Yucca brevifolia (参考サイト)

1962年 娘カレン

第2子のカレンは脳幹に悪性腫瘍があったため放射線療法をうけていました。ニールは出来る限りのことをしていましたが1962年の1月28日にカレンは亡くなりました。

泣き崩れるニールはカレンのしていたブレスレットを大切にしまいますが心に大きな傷を負います。仕事に打ち込むことで少しでもその現実から離れたいように感じました。

そんな状況下でニールの目に入ったのは“NASAジェミニ計画の宇宙飛行士選考”のパンフレットでした。

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1962年~ ジェミニ計画

1962年8月13日 エリントン空軍基地 ジェミニ計画宇宙飛行士選考

周囲が軍人だらけの中面接を受けに来たニールはそこでエリオット・シーと出会います。お互い民間人として面接に臨みました。面接の内容はこんな感じです。

  • “直接上昇方式”は見送りが決定し“月軌道ランデブー”がジェミニ計画の目標になった決定をどう思うか
  • 計画の上で課題は何だと考えているか
  • なぜ宇宙を目指しているか
  • 娘の死は影響を与えると思うか

そんな中面接でのニールの言葉が印象的だったので紹介します。

ニール「X-15機に乗り間近に見たんです 大気圏を とても薄く地球のわずかな一部でしかなく ろくに見えない 地上から見上げると実に広大なのに 普段は気にもしない 別の地点に立つと見方が変わるんです 宇宙探査で何を発見するか分かりませんが探査が目的であってはなりません 我々がとうの昔に知るべきだったのに今まで不可能だったことを教えてくれるものでなくては」

映画『ファースト・マン』より引用

そしてニールはジェミニ計画の一員に選ばれます。新しい冒険が始まろうとしている、そんな彼の顔は微笑んでいました。

実際にはこの選考は第2次の宇宙飛行士選考でした。ジェミニ計画について調べるとわかりますがこの計画はマーキュリー計画とアポロ計画の間に行われた計画です。そのためマーキュリー・セブンと呼ばれる7人(アメリカ人初の宇宙飛行士達)に続くメンバーに選ばれたのがニールになります。

ジェミニ計画について

Project Gemini was NASA's second human spaceflight program. Conducted between projects Mercury and Apollo, Gemini started in 1961 and concluded in 1966. The Gemini spacecraft carried a two-astronaut crew. Ten Gemini crews flew low Earth orbit (LEO) missions during 1965 and 1966, putting the United States in the lead during the Cold War Space Race against the Soviet Union.

Project Gemini - Wikipedia より引用

ジェミニ計画はNASAの2番目の有人宇宙飛行計画で上でも述べた通りマーキュリー計画とアポロ計画の間に行われたものです。

宇宙船は2名の宇宙飛行士を宇宙まで送ることができました。この計画で最終的には10人の宇宙飛行士がLEOを飛行しました。

1961年~1966年まで続き冷戦時代のアメリカと旧ソ連の宇宙開発競争においてアメリカの技術力を旧ソ連に見せつけるものになりました。

これまでとの違い

それまでは宇宙船1機で往復する発想というものでしたが1つのロケットに複数の船を積んで共に宇宙へ行き宇宙飛行士も母船から小型船に移り月面着陸を目指すというものをNASAは考えたようです。

またこのシーンである人物が紹介されていました。ジュール・ヴェルヌという方です。SFの父と呼ばれている方だそうです。その時代から月に行くことを夢みてきた人類は実際にたどり着くところまで来つつあるということだと思います。よかったら調べてみてください。

ジュール・ヴェルヌ (参考サイト)

1965年6月3日 ジェミニ4号 旧ソ連に先を越される“EVA” 

EVAとはextra-vehicular activityで船外活動、宇宙遊泳のことです。ジェミニ4号でエドワード・ホワイトが船外活動を行うことを祝っている際テレビにある映像が映ります。

それはソ連が初のEVAを達成したというものでした。ここからもアメリカとソ連でいかに宇宙開発競争をしていたかが分かります。またこの映像でCCCPという文字が頭に書いてありました、これは旧ソ連の国名のロシア語における頭文字だそうです。

  • 1965年3月18日 旧ソ連のアレクセイ・レオーノフがボスホート2号から人類初の宇宙遊泳
  • 1965年6月3日   アメリカのエドワード・ホワイトがジェミニ4号からアメリカ人初の宇宙遊泳

このわずか3か月の差が人類初かアメリカ人初かの大きな違いであることが映画の彼らの機嫌からうかがえます。

エドワード・ホワイト (参考サイト)

1965年8月21日 ジェミニ5号 8日間宇宙へ

ジェミニ5号の大きな功績は8日間宇宙滞在することに成功したことです。これが何を意味するかというとアポロ計画において最低限必要な日数滞在することに成功したことを意味し電源に初めて燃料電池を使用しました。ゴードン・クーパーとピート・コンラッドによって達成されました。

ゴードン・クーパー (参考サイト)

ピート・コンラッド (参考サイト)

そしてそんな中映画ではジェミニ8号の船長にニールが選ばれ打ち上げた無人のアジェナにデイヴと共に史上初のドッキングを任されます。

1966年2月28日 エリオット・シー氏

ニールのもとにある報せが来ます。それは面接のとき一緒で同じく第2グループとして選ばれていたエリオットが死んだのです。

彼とパイロットのチャールズ・バセットは、搭乗前の訓練用のT-38がマクドネル宇宙センターとして知られるマクドネル・エアクラフト101ビルに撃突して死亡した。

エリオット・シー - Wikipedia より引用

ジェミニ8号に乗る話も出ていてジェミニ9号船長に決まっていたエリオットの死について原因を憶測で語る者にニールはしっかり否定します。知ったかぶりはしないと。そして一瞬娘カレンの幻影を見ます。

1966年3月16日 ジェミニ8号 アジェナとのドッキングと緊急着陸

ニールと一緒に搭乗したデイヴについて少し載せておきます。彼は後にNASAの宇宙飛行士で7番目に月面を歩いた人物です。

David Randolph Scott (born June 6, 1932) (Col, USAF, Ret.) is a retired test pilot and NASA astronaut who was the seventh person to walk on the Moon.

David Scott - Wikipedia より引用

ジェミニ8号のミッションは既に述べた通りアジェナとのドッキングです。そして史上初のドッキングに成功するのですが異常が発生します。機体が異常回転し始めたのです。

そのためアジェナとの切り離しをはかりますが回転は止まりません。アジェナに原因があると判断していましたが原因はジェミニのスラスターにあると分かった時には既に制御が利かなくなっていました。

訓練であったように高速な回転を続けると人間は意識を失います。そんな朦朧とした状態の中ニールによりなんとか制御をとりもどし緊急着陸します。これはアメリカの宇宙開発において初の緊急着陸だそうです。

  • 1966年3月26日 ジェミニ8号 帰還後記者会見
  • 1966年4月  1日 任務評価

という流れになります。記者たちの質問攻めや原因の調査、そして雑誌であることないことを言われ現実に戸惑っていました。そしてエドワード・ホワイトに酒を飲みに行こうと誘われそこであることを伝えられます。アポロ1号にエドワード・ホワイトが乗ることが決まったのです。

最終的には無事にトラブルはあったものの生還してくれたことでアポロ計画に進むことができるという評価でした。こうしてジェミニ計画で数々のミッションを達成して遂にアポロ計画に移っていきます。

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1967年~ アポロ計画

アポロ計画について

The Apollo program, also known as Project Apollo, was the third United States human spaceflight program carried out by the National Aeronautics and Space Administration (NASA), which succeeded in landing the first humans on the Moon from 1969 to 1972.

Apollo program - Wikipedia より引用

1961年のケネディ大統領の声明の発表からだったり無人から指すものや有人の部分だけを指すものもあったりで迷ったのでこのブログでは1961年からアポロ計画ははじまっていてその一環の中にジェミニ計画があったという解釈でいきたいと思います。

1967年1月27日 アポロ宇宙船最終テスト

2月21日に発射を控え最終テストの段階にきていました。そんな時にある悲劇が起きます。映画でも取り扱われていますが火災が発生し火花が出て酸素により爆発を起こしました。

同年1月27日、ケープ・カナベラル空軍基地34番発射台上で発射の予行演習を行っていた際に発生した火災により、船長ガス・グリソム(Virgil I. "Gus" Grissom)、副操縦士エドワード・ホワイト(Edward H. White)、飛行士ロジャー・チャフィー(Roger B. Chaffee)の3名が犠牲になり、司令船も焼失した。

アポロ1号 - Wikipedia より引用

この事故によりアメリカの有人宇宙飛行は20ヶ月間中止されました。事故のニュースを眺めるニールの表情はなんとも言えないものがありました。

1968年10月11日~1969年5月18日 アポロ7、8、9、10号

有人飛行が再開されアポロ計画における最初の有人飛行はアポロ7号でした。そして10号まで実験がおわり全ての準備が整い11号は順調にいけば月面着陸ができるというところまできます。その船長に選ばれたのがニールでした。

アポロ11号

1969年7月 5日 アポロ11号記者会見

ここでニールは今日があるのは過去の飛行のおかげであると述べます。毎回新しい目標が達成され積み重ねてきました。そして月に着くまで付け加えることはあとわずかであると。しかし成功すればニールの名が残ることに記者とニールの間で考え方の違いがあるように見えました。

ニールは全員で目指してきたものであり成功は全員が祈っているものだと。つまり最初に自分が達成しても関わってきた人間すべての集大成であるという考え方だったのです。ですが記者達の質問はニール1人に向けられたようなものばかりだったのが印象的でした。

1969年7月16日 アポロ11号発射

フロリダ州ケープ・ケネディから搭乗したのは船長ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンの3人。

そして月に到着した3人のうちニールとオルドリンはイーグル号に乗り移ります。ミッション開始から100時間12分でイーグル号を切り離したと映画ではありました。燃料がぎりぎりで当初の着陸予定位置よりずれたなどトラブルはありながらも1969年7月20日の20時17分無事着陸に成功します。

そして1969年7月21日2時56分人類が初めて月に降り立ちます。有名な言葉も生まれました。

That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.

ニール・アームストロング - Wikipedia より引用

そして映画内でニールはあるものを月に置いていきます。無事地球に帰還したニールは歴史に名を残すと共に人類が見たことのないものを見てきたのです。manの前にaをつけ忘れたらしく後日その話を語ったそうです。

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学んだことと書きたいこと

ニール・アームストロング船長のことは知っていましたがあくまで月に降りた人という理解しかしていませんでした。

そんな彼がここにたどり着くまでにたくさんの飛行がありたくさんの想いがあったことを知りました。

そしてそれらは本人達にしか分かりえない領域の偉業だと思います。

しかしそんな偉業を自分だけでなく人類の偉業として捉えた言葉にとても感銘を受けました。

また映画では常ににカレンという存在がニールにはありそれは彼ら宇宙飛行士の戦いが常に死と隣り合わせにあるかのようでした。

最後に1961年の大統領の演説が扱われていました。

We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too.

アポロ計画 - Wikipedia より引用

10年以内に月に行くと決めたのは簡単だからではなく困難だから行くんだと言っていました。その先は映画では扱われていませんでしたが人類として凄い目標を立てて本当に凄いことをしたんだなと改めて思いました。

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ファースト・マン (字幕版)

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『アメイジング・グレイス』のウィルバーフォースから奴隷貿易法成立までの流れを学ぶ

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イギリスの奴隷貿易法成立までの流れを学べる映画

『アメイジング・グレイス』のウィルバーフォースから『Amazing Grace』という曲を通してイギリスの奴隷貿易法成立までの流れを学びました。イギリスの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。基本的にはウィルバーフォースという奴隷廃止運動に尽力した国会議員の半生と有名な曲『Amazing Grace』の誕生の話が共に描かれている映画です。

1807年の奴隷貿易法とは

まずイギリスで1807年に成立した奴隷貿易法とはどういうものなのか簡単に調べてみました。

1807年3月25日、イギリス議会で奴隷貿易法(en:Slave Trade Act 1807)が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法と定めた。イギリス船で奴隷が見つかった場合の科料は1人あたり100ポンドとされた。

奴隷制度廃止運動 - Wikipedia より引用

今回の映画はここにたどりつくまで壮大な話なのです。そしてその成立に貢献し奴隷廃止運動のリーダーとして活動した人物がいます。

ウィリアム・ウィルバーフォース氏について

ウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce、1759年8月24日 - 1833年7月29日)は、イギリスの政治家、博愛主義者、奴隷廃止主義者。奴隷貿易に反対する議会の運動のリーダーを務めた。

ウィリアム・ウィルバーフォース - Wikipedia より引用

イギリスの政治家の方です。あくまで映画ではウィルバーフォース氏の人生全てではなく1780年頃~1807年の奴隷貿易法の成立までという彼の奴隷廃止運動に焦点があてられています。

1775年~アメリカ独立戦争 “融和”と“降伏”の違い

まず1775年~イギリス軍と植民地軍の間に何が起きていたのか調べてみます。

1775年にレキシントンで、イギリス軍と植民地軍との間の武力衝突が起こった。これが植民地全域にまで拡大し、アメリカ独立戦争に発展した。植民地軍はジョージ・ワシントンを司令官として粘り強く対抗、翌1776年には独立宣言を発した。イギリスを除く他のヨーロッパ列強は、当初事件の推移を傍観していたが、1778年にベンジャミン・フランクリンの説得によって、新大陸での利権回復の好機と見たフランスが対英宣戦した。1780年にはロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって武装中立同盟が成立し、ヨーロッパの中でも孤立したイギリスは苦戦を強いられた。

イギリスの歴史 - Wikipedia より引用

このような時代背景のある中1780年に21歳にしてウィルバーフォースは国会議員になりました。

1782年庶民院でのやりとりでホイッグ党の党員にトーリー党の党員としてまだ20代前半であったウィルバーフォースはアメリカでの戦争の意義を整理していました。

イギリスには独立軍を倒す兵力はあるが武力と正義の線引きは必要だと考えていました。個人の利益より国益を優先するべきだと。

ウィルバーフォースは“融和”と“降伏”の違いをこのように述べていました。

ウィルバーフォース「その2つの違いは単にかかる時間です 時間をかければ1万の若者が無駄に命を落とす」

映画『アメイジング・グレイス』より引用

つまり孤立して苦戦を強いられ戦争が長引き多くの若者が命を落とす、つまり“降伏”する前に“融和”するべきだと力説するのです。そんな彼を同じ国会議員であり友人のウィリアム・ピット氏は「屈しない男」と評価します。 

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 1783年~ウィリアム・ピット首相時代

選択を迫られる「屈しない男」

ウィリアム・ピットがイギリス首相になる直前、ウィルバーフォースは信仰の道に進むか政治家の道に進むか選択を迫られていました。

フォックスは、大きく失われたジョージ3世の引き立てを得ようと、エドマンド・バークによる東インド会社改革法案を国会に提出したが、国王の支援は得られず、その後フォックスとノースの連立は崩壊した。フォックスは、この法案は東インド会社の倒産を防ぐために不可欠であると明言していた。ピットはこれに対してこう述べた。「不可欠という言葉は、人間の自由を侵害するものの言い訳でしかなかった。それは暴君の主張であり、奴隷主義であった。」

ウィリアム・ピット (小ピット) - Wikipedia より引用

ウィルバーフォースの活躍もあってフォックスとノースの連立が崩れ首相になる機会がくることに気づいたウィリアム・ピットは側近に友人であり「屈しない男」であるウィルバーフォースが欲しかったのです。

動き出すウィリアム・ピットと「自分の目で見るまで信じない男」

ウィルバーフォースはウィリアム・ピットと共に夕食に人を招待します。そこに招かれたのが以下の6人です。

  • ジョン・ラムゼイ牧師

映画内ではジョン・ラムゼイとなっていたのですがジェームズ・ラムゼイという奴隷制度廃止運動に関わっている方がいました。おそらくその方をさすのだと思いますが牧師の記載は見当たりませんでした。

  • エドワード・ホープ
  • マイケル・ショウ クエーカー教徒

1783年にクエーカー教徒ウィリアム・ディルウィンが渡英して反奴隷貿易を掲げる2つの組織をつくっていることは分かりましたがこの方の名前を見つけることができませんでしたがここからクエーカー教徒が関わっていることがわかります。クエーカー教徒が議会に入れない事情もウィルバーフォースが運動のリーダーになった1つの要因かもしれません。

最初の3人はちょっと見つけられませんでしたが分かった範囲で記載します。

夕食を食べながら彼らの目的が徐々に分かってきます。エクィアノに何故ロンドンに来たのか尋ねるとウィルバーフォースに会うためだと言うのです。

そしてトマス・クラークソンとエクィアノから「奴隷用の首輪、手枷、足枷」と胸に焼き付けられた「焼き印」を見せられジャマイカの農園までどのように奴隷が送られるかの話を聞きます。

2人の話をまとめると以下のようになります。少し内容がきついので注意してください。

 

注意

アフリカを出る時に120×45cmの空間に押し込まれます衛生状態は最悪で少量の食糧しか与えられず水は汚れています。3日間でそこには血や排泄物が溜まり鎖は身投げ防止用つけられているのです。

鎖が外れるのはジャマイカのプランテーションに到着してからなのですがそれまでに半数が死ぬといいます。

そして売られる際赤痢だとばれないように結んだ綱を肛門に入れられ農園で焼かれたコテで胸に焼き印をいれられると言います。

エクィアノはこう言いました。

エクィアノ「神のしもべから人の財産になった証です」

映画『アメイジング・グレイス』より引用

そして6人は信仰の道も政治の道もどちらも進んでほしいと願います。ウィリアム・ピットは彼の個人的活動を政治に利用していきました。そこまでして側近にウィルバーフォースが欲しかったのです。また目的のためなら手段を選ばないウィリアム・ピットの一面を感じました。

ジョン・ニュートン牧師 孤独

1785年に選択に迷いがあったウィルバーフォースは助言を求めて少年時代から知るある人物を訪れます。その人物がジョン・ニュートンです。

John Newton (/ˈnjuːtən/; 4 August [O.S. 24 July] 1725[1] – 21 December 1807) was an English Anglican clergyman and abolitionist who was forced to serve as a sailor in the Royal Navy for a period. He was first a slave of Princess Peye, a black princess of the Sherbro people and then, years after, He became the captain of slave ships. He became ordained as an evangelical Anglican cleric, served Olney, Buckinghamshire, for two decades, and also wrote hymns, known for "Amazing Grace" and "Glorious Things of Thee Are Spoken".

John Newton - Wikipedia より引用

簡単に書いておくと賛美歌『Amazing Grace』の作詞者であり奴隷船の船長から牧師になった方です。

2人で孤独について話し合うシーンが印象的だったので紹介します。

ジョン「君のような人間が世をすて孤独に生きてはいかん」

ウィルバーフォース「あなたは孤独では?」

ジョン「私が独りではないことは知っているはずだ」

ウィルバーフォース「だからです」

映画『アメイジング・グレイス』より引用

ジョンは2万人の奴隷の幽霊に囲まれているから孤独ではないと少年のウィルバーフォースに説明していました。そしてそれは時が経っても変わっていません。奴隷船の船長として2万人の奴隷の亡霊と生きてきたのがジョンなのです。

ジョンは自分が殺したのだと責めながら生き続けていました。そんな彼に奴隷制と戦いたいウィルバーフォースは協力を求めますが断られます。

しかしジョンの実態を見ろ、人も都市も悲惨なことになっている神のためにも戦ってほしいという強い願いにウィルバーフォースの気持ちはだんだんと固まっていきました。

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本格的に活動を始めるウィルバーフォース達

議会での最初の結果は散々なものだったようです。しかしその時から活動に参加していた者たちは「自分の目で見てきた」という共通点がありました。そしてその悲惨さをどのように人々に伝えていくか試行錯誤していきます。

そして議員を招き奴隷船のにおいを焼き付けさせたのです。アフリカからジャマイカに向かい死んでいった者達のにおいとその船マダガスカル号を見せつけることでその悲惨さを人々に伝えていきました。

そして各々は議会に提出する証拠となるものを冬の間集めていったのです。その時の活動としてトマスは船医や奴隷自身から話を聞きエクィアノは自伝を書きました。

その自伝が『The Interesting Narrative of the Life of Olaudah Equiano』というものです。映画でも彼の本が売れているシーンがあります。2か月で5万冊売れたと映画にはありましたがとにかく反響があったことは間違いなさそうです。

In London, Equiano was part of the Sons of Africa, an abolitionist group composed of Africans living in Britain, and he was active among leaders of the anti-slave trade movement in the 1780s. He published his autobiography, The Interesting Narrative of the Life of Olaudah Equiano (1789), which depicted the horrors of slavery. It went through nine editions and helped gain passage of the British Slave Trade Act of 1807, which abolished the African slave trade.

Olaudah Equiano - Wikipedia より引用

 1789年にこの本を出版して1807年の奴隷貿易法の成立を助けたことが書かれています。また映画では自分はアフリカでは王子だったと述べていました。

The Interesting Narrative of the Life of Olaudah Equiano - Wikipedia (参考サイト)

本についてはこちらにより詳しく説明されていたので読んでください。

そしてこれらの活動の影響により人々の砂糖に対しての行動に変化が出たようです。奴隷はジャマイカの農園につれていかれ砂糖を作らされていたわけですが“自由人の作った砂糖”しか買わなくなったりそもそも砂糖を使わないといった影響が出てきました。

そして証拠をつきつけろという議会に対して国中の都市を回って奴隷貿易廃止のための署名を披露しました。その名前の数は39万人にものぼりました。しかしダンダス卿が買収されたことにより思いもがけない事態になります。

Thomas Dundasと調べるとたしかに時代が一致するイギリスの政治家の方が出てくるのですがこの件についての記載はありませんでした。

奴隷貿易廃止に賛成はしたもののすぐに違法にすると国内の多くの都市が財政危機に陥るとして時間をかけて移行をすることにされたのです。

この時にアメリカ独立戦争のところのウィルバーフォースの言葉を思い出しました。“融和”と“降伏”は出てきませんがこの問題も時間をかけるほど命を落とすものが増えると。

トマス・クラークソンはフランスで革命が起こるためそこに向かいます。その時行き詰りつつあったウィルバーフォースにこう言いました。

トマス・クラークソン「自由な労働者と同じ権利が奴隷にあるなら彼らにも繁栄する権利がある」

映画『アメイジング・グレイス』より引用

ボストンからのアメリカの独立戦争そしてフランス革命、次はロンドンというトマス・クラークソンにウィルバーソンは二度と革命の話をするなと突き放します。そして自分の越えるべき壁を整理しました。

  1. 奴隷貿易停止
  2. 社会の変革

変化した情勢 1789年フランス革命 挫折

最初の法案を出してから5年が経っていました。徐々に票が伸びてきたときに情勢は変わります。首相であり友人のウィリアム・ピットに戦争時でのこの活動は暴動の扇動者とみられることになると忠告しますがウィルバーソンにはその忠告は届きませんでした。

彼の机の上にあったのはPhilip Doddridgeの“The Rise and Progress of Religion in the Soul”という本でした。

His The Rise and Progress of Religion in the Soul was translated into seven languages.

Philip Doddridge - Wikipedia より引用

つまり彼はいつの間にか周囲の情勢が見えなくなってしまい信仰の道と政治の道両方を進んでいたはずがとにかく妄信的に活動するようになっていたように僕は感じました。

そしてウィリアム・ピットの言うように人々の奴隷貿易への風向きが変わってしまいます。法案は却下されてしまいましたこれがウィルバーフォースが折れてしまった流れです。

1797年~バーバラと結婚 友との再会

そしてトマス・クラークソンは隠退、チャールズ・フォックスは様子見し、クエーカー教徒は活動を続けるも反応するものはいませんでした。さらにエクィアノは1797年に亡くなりました。

戦況が落ち着き人々の心に余裕が生まれれば上手くいくとバーバラに説得されます。ある1点を除いて全てが一致していたウィルバーフォースとバーバラ。

その1点とは奴隷制度廃止が終わるか最後までやりきるかの違いでした。そして再び心を取り戻したウィルバーフォースはバーバラと結婚し結婚式でウィリアム・ピットと再会を果たします。そんな二人の会話が首相として友として素敵だったので紹介します。

ウィルバーフォース「今も扇動罪か?」

ウィリアム・ピット「首相として注意する」

ウィルバーフォース「友としては?」

ウィリアム・ピット「気にせずやれ」

映画『アメイジング・グレイス』より引用

再び動き出す

彼が訪れたのはジョン・ニュートンのところでした。ジョン・ニュートンは自伝を書いていたのです。覚えていることのすべてを。そんな奴隷制度廃止を願う彼の言葉がとても印象的でした。

ジョン「名前を思い出したいよ わたしといる 2万人の幽霊の 全員名があった 美しいアフリカの名前が だが我々は彼らを名前でなど呼ばなかった」

映画『アメイジング・グレイス』より引用

 そしてウィルバーフォースを送り出します。

次に訪れたのはトマス・クラークソンのところでした。こうして再び仲間を集め直します。そしてカリブでの状況を仲間たちから聞き作戦を練ります。しかし証拠を出すだけでは今までと同様に同情をかうだけでなにも進展しません。

秘策“ノーサス・デキピオ”

その戦略の名が“ノーサス・デキピオ”というラテン語の名前です。意味は“ズル”になります。具体的にはその年は奴隷廃止法案を提出しないというものでした。その代わりに中立旗を掲げる貨物船の問題を扱うというのです。

“アメリカ国旗をつけたフランス船は拿捕してもよい”と愛国心から法案を作ったことにします。

これには目的がありました。奴隷船の8割は私掠船よけにアメリカの旗を掲げていたのです。僕は知りませんでしたが私掠船というのは戦争状態にある敵国の船を攻撃しその船の積み荷を奪う許可を得た船のことだそうです。

つまりほとんどの奴隷船が奪われないようにアメリカの旗を掲げています。上に書いた法案を通すことにより8割の奴隷船は保護の対象ではなくなります。そのため船主は船を出さなくなるはずだという戦略です。

しかしイギリスの船が対象から漏れてしまいます。なので穴を無くすために一度でもアメリカの旗を掲げた船すべてを対象としたのです。

友との別れそして成立へ

1806年首相であり友であったウィリアム・ピットが亡くなります。そして成し遂げることを約束するのです。

トマス・クラークソンはエクィアノの墓の前で酒を飲んでいました。もう少しだと。そして運命の日は訪れました。

それまで20年間にわたって尽力してきたウィルバーフォースへの賛辞がなされる中、法案は283対16で可決され、奴隷貿易法は1807年3月に国王の裁可を受け成立した。

ウィリアム・ウィルバーフォース - Wikipedia より引用

 映画ではフォックスからも賛辞を送られていますが実際は前年の9月に亡くなっていたようです。その後もウィルバーフォースは活動を続けていきました。

学んだこと書きたいこと

まずこれはあくまでもイギリスの奴隷廃止運動の一部分であるということです。

フランス、アメリカでも運動は起こりこの映画の舞台となったイギリスでも奴隷貿易法が成立した1806年以降も続いていきます。そしてイギリスでは1833年の奴隷制度廃止法が成立します。

ただ1806年にたどり着くまでに数多くの活動家の想いとたくさんの亡くなった方の想いがありました。讃美歌『Amazing Grace』はそんな歴史の中で作詞された曲なのです。

多少映画のエクィアノの出版の時期やフォックスの死期など200年以上前のことですから僕が調べたものと違和感があったりする部分もありましたがおおまかな流れを学ぶという意味ではとてもありがたい映画でした。

そして調べていくうえで色んな情報に触れれたのでとても勉強になりました。

映画もですが『Amazing Grace』という曲も素敵な曲なので是非2万人とその時代の人々を考えながら一度聴いてみてください。今までと何か違うように聴こえると思います。大変長くなってしまいましたが読んでくださってありがとうございました。誤字脱字は後に修正します。

大変参考にさせていただいた資料

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/vol_14/sentences/3.fujikawa.pdf (参考サイト)

簡単にまとめてくださっているWIKI

奴隷制度廃止運動 - Wikipedia (参考サイト)

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アメイジング・グレイス(字幕版)

予告編はこちら

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『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』のクリシュナマチャリアからヨガの歴史を学ぶ【完結】

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インドで近代ヨガのルーツを学べる映画

前回の続きになります『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』のクリシュナマチャリアとその子供、弟子からヨガの歴史を学びました。ドイツとインドの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

 『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』のクリシュナマチャリアからヨガの歴史を学ぶ【第1回】 - ニートが好きだね?から読むと流れが分かりやすいと思いますので良かったらどうぞ。

前回の簡単なまとめと弟子についての補足

 今回は主にクリシュナマチャリアとその弟子達について学んでいきました。1930年代に基盤を作っていったことは分かりましたし当時にはヨガに対しての偏見があったことも知れました。

『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』のクリシュナマチャリアからヨガの歴史を学ぶ【第1回】 - ニートが好きだね?  より引用

  • 1930年代クリシュナマチャリアによって現代ヨガの基礎が作られた
  • 当時はヨガに対して世間の偏見があったり実践は軽んじてみられていた
  • 弟子たちによって新しい流派が生まれてきた

簡単にまとめるとだいたいこんな感じになります。また弟子について少し補足をしておきます。クリシュナマチャリアと弟子の関係の整理です。

  • 最初の弟子パタビジョイス 1927年
  • アイアンガーが弟子入り  1934年
  • デーヴィー        1947年

弟子デーヴィー氏 アメリカにヨガをもたらした1人

デーヴィー氏については前回触れていないので少し説明します。

Eugenie Peterson (Latvian: Eiženija Pētersone, Russian: Евгения Васильевна Петерсон; May 12, 1899 – April 25, 2002),[2] known as Indra Devi, was a pioneering teacher of yoga as exercise and an early disciple of the "father of modern yoga",[3] Tirumalai Krishnamacharya. Her popularization of yoga in America through her many celebrity pupils in Hollywood, and her books advocating yoga for stress relief, earned her the nickname "first lady of yoga".

Indra Devi - Wikipedia より引用

ロシア人の女性の方でインドで弟子入りした後ハリウッドでヨガを教えるなどヨガの普及に貢献した人物です。

弟子の時系列の整理が済んだのでようやく次に進みます、何故これを書いたのかはもう少しすると分かります。今回はクリシュナマチャリアの子供にあたる方々から学んで書いていこうと思います。

クリシュナマチャリア氏の妻と子供達

登場人物が多くてちょっと複雑なのでなるべく丁寧に書いてみようと思ったのですが画像のほうが分かりやすいと思うので作ってきました。

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制作すろまる (参考資料)映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』

子供は6人、男女3人ずつみたいです。名前が長いので上のような形になりました。そして子供達全員クリシュナマチャリアからヨガを学んでいたのです。

三男シリーバシャム氏 新しいヨガの方式ヴィンヤサ・クラマ

1934年に当時の王クリシュナ・ラージャ4世は道場を設置し自らも指導を受けました。“アラスーの男子”のために作ったと管理報告書に残っているそうです。アラスーとは王族が属していたコミュニティーのことで練習は夕方に行われ多いときは100人もの人が集まったそうです。朝は王が練習する時間だったため他の者は夕方に練習したのです。

クリシュナ・ラージャ4世 - Wikipedia(参考サイト)

彼の話によると王は親族の身体能力を高めたいと考えるようになり王族が戦いに備えるために訓練が必要だと判断しました。1930年代はインドが独立する間近です。英国軍との間に問題を抱えていてインド全土が警戒態勢の中にありました。詳しいことはリンク先のイギリス統治時代からインド独立までのところを調べてください。ここでは割愛します。

インド - Wikipedia (参考サイト)

それが新しいヨガが生まれたきっかけであり父クリシュナマチャリアはそれまでの方式を変えたと言います。クリシュナマチャリアはこれまでの方式のものから動きを速くより高度なものにしました。その方式を「ヴィンヤサ・クラマ」と名付けました。

クリシュナマチャリアの著書『ヨーガ・マカランダ』についても説明していました。

Yoga Makaranda (Sanskrit: योग मकरन्द​), meaning "Essence of Yoga", is a 1934 book on hatha yoga by the influential pioneer of yoga as exercise, Tirumalai Krishnamacharya. Most of the text is a description of 42 asanas accompanied by 95 photographs of Krishnamacharya and his students executing the poses. There is a brief account of other Haṭha yoga practices, asanas forming just one of the eight limbs of classical yoga, that Krishnamacharya "did not instruct his students to practice".

Yoga Makaranda - Wikipediaより引用

95枚の写真からなる42のアーサナの説明をした本であり若きクリシュナマチャリアの写真が写っています。アーサナにはいる前の直立姿勢のことを“サマスティティ”と呼ぶそうです。

これらのアーサナの起源は曖昧だそうです。理解しているものがそもそも少なかったため古代の叙事詩に登場する多くのアーサナをクリシュナマチャリアは頭の中で整理し指導していたそうです。

長女プンダリーカヴァッリー氏 当時の生活

  • 朝6時~8時半 ヨガの練習
  • 休憩と朝食
  • 11時~11時半 呼吸法
  • 昼食
  • 14時~ 庭で会話、弟子に講釈
  • 休憩
  • 15時以降 ヨガの理論と実践の指導
  • 17時~20時 道場
  • 帰宅後 読書
  • 夕食
  • 就寝前 読書 

当時送っていた生活だそうです。毎日2時間半の練習、そしてそれとは別に呼吸法の時間があり叙事詩の勉強と道場と読書、予定がぎっしり詰まっています。兄弟たちが会話している際にクリシュナマチャリアは弟子たちに古代の叙事詩を教えていたそうで食事は常に控えめだったとプンダリーカヴァッリーは言っていました。

クリシュナマチャリアの教育の価値観と階級 “ヨガは万人のもの”へ

長女のプンダリーカヴァッリーは父の教育の価値観についてこのように語っています。

「父は教育を財産だと考えました 知識は財産であり宝です そのため父はどんな人にも学びを勧めていました 知識は誰にも奪えません 金銭などの物質は盗まれても知識は教えない限り他者には渡りません それが父の考えでした」

映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』より引用

またクリシュナマチャリアはバラモン階級の出身だったこともわかりました。カースト制度については長くなりそうなので割愛します。

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1930年代のインドでヨガを学べたのは限られた人だけだったようです。クリシュナマチャリアはその壁を取り払い妻にもヨガを教えました。つまり女性も学ぶ権利があると考えヨガを“万人のもの”にしていったのです。

そして王の後援もあり知名度をあげていったクリシュナマチャリアは各地に弟子をつれてヨガの実演をすることでヨガを広めていったのです。

1947年インド独立後の道場とその後 科目としてのヨガ

1947年にインドが独立します。その頃州の財政上存続が困難になっていたクリシュナマチャリアの道場は突然閉鎖されました。一家は数年間庭の畑で生活しヨガの評判を聞いた人物からチェンナイに呼ばれます。

小さいアパートに住みながらそこで患者や生徒を受け入れ個人指導を行っていったそうです。そこで行われていたのが“命をつなぐヨガ”でした。そして息子達に講演させチェンナイでもヨガの普及に尽力していきました。

その後チェンナイの大学で初めてヨガが科目になります。科目になったヨガでは3つの目的を教えていたといいます。

  1. 健康な身体
  2. 健全な心
  3. 集中力を得ること

この3つがクリシュナマチャリアが教えた3つの目的だと言います。これを考えるとアシュタンガヨガの体→心→本当のヨガという流れはしっかりクリシュナマチャリアから受け継がれたものに感じます。

ヨガは他のスポーツと同じように練習はとてもきついものですが違う点がありそれは終わった後疲労しないと生徒の方が言っていました。

アーサナの起源と神話の関係について

クリシュナマチャリアはよく寺院を訪れたそうです。その寺院の神の名はヨガ・ナラスィムハという名前でその寺院の絵はヒンドゥー教の神話が描かれています。そこに初めて出てきたアーサナがありました。

神話やヴェーダの時代では神の取る姿勢をアーサナと言います 最初にアーサナをしていたのがこの神だったのです この絵では瞑想をしています

映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』より引用

 アイアンガーヨガ

クリシュナマチャリアからの解放

弟子でもあり同時に義弟でもあったアイアンガーは他の弟子より差別されていたといいます。師は他の弟子には何も言わないが自分には無理強いをすると。そしてそれをきっかけに肉離れを起こし治すのに2年かかったそうです。

前回に触れましたがプネーで指導するようにと言われたときは責任を感じつつも師から解放されたことが嬉しかったようです。

そして独自の理論を作り上げていきます。鏡もない状況で自分の感覚だけを頼りに知性を働かせどうしたら正しい感覚が生じるか試み続けました。

アシュタンガヨガ

アシュタンガヨガの目的

パタビジョイスアシュタンガヨガを作りその目的を以下のように述べています。

第一に体を浄化させることが目的です そして心の動きを滅しコントロールすることです 完全なる心の制御を目指します

映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』より引用

 つまり体を制御することで初めて心を制御することができるようになるといいます。そして到達には長年の練習が必要だそうです。そして心をコントロールできることが本当のヨガであると言っていました。

最後に学んだことと書きたいこと

2回に分けて記事にしましたが結構なボリュームになってしまいました。それではまとめていきます。

ヨガの起源は4000年以上前からあるといわれインダス文明の頃まで遡れるといいます。

しかし遡るほど情報は不透明になっていくため現代のヨガの流れを理解するためには近代ヨガの流れを掴むことが重要であると言えます。

1800年代後半から1900年代前半を中心にクリシュナマチャリアをはじめ現代のヨガの基盤を作った人がこの時代に集中しています。この映画でも主に焦点があたっているのは近代ヨガの部分でありその中のクリシュナマチャリアについてでした。

つまりこの映画だけでは近代ヨガのはじまりから現代への全体像は把握しきれません。しかし間違いなくクリシュナマチャリアはヨガの歴史において重要な人物の1人であるということです。彼の三男はこう言っていました。

「見た目には分かりませんが集中が深い状態へ その時には心が完全に平穏な状態です 最後は精神に集中し練習を終えます 宗教は関係なく魂がある場所を考えるのです 」

映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』より引用

そして練習を積み重ねることで自己の人生が見える瞬間があると言います。

体を制御し最終的には心を制御して本物の集中力を手に入れる。そしてそれは練習で誰もが手に入れることができる状態にしてくれたのはクリシュナマチャリアをはじめとした偉大な方々の活動があってのことなのですね。

以前に読んだ『自律神経をリセットする太陽の浴び方』という本の中で瞑想について触れる部分がありそのことと眉間に集中することが一致していました。スピリチュアルな部分だけでなく脳的にもどうなっているのか勉強してみるのもとても楽しそうです。

近代ヨガの起源の一部とヨガの目的を知れてとても面白い映画でした。良かったら是非観てみてください。長くなってしまいましたがお付き合いありがとうございました。

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聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う旅(字幕版)

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前回の記事はこちら 

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瞑想の部分は取り扱いませんでしたがその本から学んだ記事はこちら 

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『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』のクリシュナマチャリアからヨガの歴史を学ぶ【第1回】

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インドで近代ヨガのルーツを学べる映画

『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』のクリシュナマチャリアとその子供、弟子からヨガの歴史を学びました。ドイツとインドの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。

基本的には「現代ヨガの父」「モダンヨガの父」と呼ばれているクリシュナマチャリア(予告編では「近代ヨガの父」とありました)の子供達や弟子から話を聞きに実際にインドに行きヨガのルーツを探る話です。

ちなみに僕はヨガ未経験です。ただ呼吸法や瞑想に興味があったので通ずるものがないか気になってこの映画を観てみました。

クリシュナマチャリア氏について

 Tirumalai Krishnamacharya (November 18, 1888 – February 28, 1989)[1][2] was an Indian yoga teacher, ayurvedic healer and scholar. Often referred to as "the father of modern yoga,"[3][4] Krishnamacharya is widely regarded as one of the most influential yoga teachers of the 20th century. Like earlier pioneers influenced by physical culture such as Yogendra and Kuvalayananda, he contributed to the revival of hatha yoga.[5]

Tirumalai Krishnamacharya - Wikipedia より引用

最初にも触れましたが「現代ヨガの父」と呼ばれていて20世紀で最も影響力のあるヨガの師の1人だそうです。それでは映画の話をしていきたいとおもいます。

生誕の地ムチュクンテ村 カルナータカ州チトラドゥルガ県

最初に訪れたのはティルマライ・クリシュナマチャリアが生誕したムチュクンテ村です。現在のカルナータカ州チトラドゥルガ県にありました。一応調べても全然日本語の情報がなかったので英語です。

Chitradurga district - Wikipedia (参考サイト)

チトラドゥルガのサイトの下の方にPeopleの項目があります。

Tirumalai Krishnamacharya — yogi and Ayurvedic guru. One of the most influential yoga teachers of the 20th century and is credited with the revival of hatha yoga. Also called father of Modern Yoga.

Chitradurga district - Wikipedia より引用

書いてあることは上とほとんど一緒みたいなので省略しますけどここから生まれた人の1人として名前が残るくらい凄い方なのですね。

村が移動した理由

以前村があった場所はアリ塚が多くて水はけがとても悪かったから移ったそうです。ちなみに彼が現代ヨガを確立した人物というのを知っているか尋ねても反応が薄かったです。

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マイソール カルナータカ州で2番目の規模を持つ都市

マイソールについては以下に載せておきます。

マイソール - Wikipedia (参考サイト)

1930年代にクリシュナマチャリア現代ヨガの基盤を作ったそうです。そこでより深くルーツを探っていくためにマイソールという都市を訪れ彼の弟子から話を伺っていきます。

グルプールニマー

グルプールニマーはインドのお祝いの日だそうです。“グル”とは日本語で言う“師匠”のことです。“プールニマー”は“満月”とのこと。つまり師に対して感謝をする日がグルプールニマーなのです。調べたらあったので載せておきます。

Guru Purnima (Poornima) is a spiritual tradition in Hindu culture dedicated to spiritual and academic teachers, who are evolved or enlightened humans, ready to share their wisdom, with very little or no monetary expectation, based on Karma Yoga. It is celebrated as a festival in India and Bhutan by the Hindus, Jains and Buddhists.

Guru Purnima - Wikipedia より引用

映画内ではヨガの導師に限らず偉大な師に感謝を示す日だと述べています。そしてその日はたまたまパタビジョイスの誕生日でした。パタビジョイスについて調べてみました。

弟子パタビジョイス氏 アシュタンガヨガという流派を創設

K. Pattabhi Jois (26 July 1915[1] – 18 May 2009)[2] was an Indian yoga teacher and Sanskrit scholar who developed and popularized the vinyāsa style of yoga referred to as Ashtanga Yoga.

K. Pattabhi Jois - Wikipedia より引用

ヨガの講師でありサンスクリットの学者と書かれています。クリシュナマチャリアについてもページに飛べば書いてあります。少し不祥事のことも書かれていましたが映画内では出てきてなかったのここでは触れません。

映画内で監督はパタビジョイス氏の流派のヨガを体験して心と体の融合を感じたみたいです。そして“アーサナ”と呼ばれるポーズの起源を探っていきます。

パタビジョイス氏からみた師

パタビジョイス氏は師クリシュナマチャリアについてこのように述べています。

パタビジョイス「クリシュナマチャリアは厳しいしでした アーサナを間違えるとたたかれたものです 当時はたたくことも教育でした 師は自身が学んだ方法と同じやり方で私たち弟子を指導しました。」

映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』より引用

ではクリシュナマチャリアは何処から学んだのでしょうか?

当時はヨガを知る人はほとんどいなかったそうです。そのためクリシュナマチャリアは古代の文献から学んでそれを弟子達に教えていたとのことです。

『ヨーガ・コルンタ』という文献で書物は残っていないそうです。それを読むためにサンスクリット語が必要になってくるわけですね。

ヤシの葉に書き写していたそうですがアリに食べられてしまったそうです。ムチュクンテ村もアリ塚で移動していましたが今回もアリにやられてしまったみたいです。クリシュナマチャリアはそれらを暗記していたそうです。

そしてパタビジョイスからある言葉を言われます。『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』第1章の最後からだそうです。 

“ 年老いた人や病気の人 つまり弱ってやつれた人でも 練習でヨガを完璧にできるようになる”

映画『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』より引用

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プネー マハーラーシュトラ州プネー県

プネーに移動してクリシュナマチャリアの弟子であり義理の弟でもあるアイアンガー氏を訪れていきます。プネーについてはいかに載せておきます。

プネー - Wikipedia(参考サイト)

弟子アイアンガー氏 アイアンガーヨガを生み出す

B.K.S.アイアンガー(B.K.S. Iyengar、Bellur Krishnamachar Sundararaja Iyengar、1918年12月14日 - 2014年8月20日[1])は、インドの人物で、アイアンガーヨーガの創始者。

B.K.S.アイアンガー - Wikipedia より引用

彼はクリシュナマチャリアの義弟でパタビジョイスとは別の方法を生み出した人物です。撮影時で既に75年間続けているという時点で驚きが隠せませんでした。

パタビジョイスも言っていたようにアイアンガーがヨガを学び始めたときもヨガはインド人にとって異質なものであったと述べています。

学者達はヨガの哲学的部分を尊重し実践は軽んじていたようです。そして当時世間にはヨガに対する偏見がありました。修行をする人は

  • 精神的に病んでいる
  • 家族から追い出されたもの

このような偏見を当時の人々は抱いていたそうです。

2年クリシュナマチャリアの元にいましたが教わったのはたったの2~3週間ほどだったそうです。ですがプネーで人々に指導するよう命じられ1937年にプネーに移ります。とても重い責任だったと語っていました。

師にも世間にも認められないアイアンガーの決意

クリシュナマチャリアに“ヨガに不向き”と言われ上でも述べた通り世間もヨガに対して偏見を持っていて板挟みになったアイアンガーは自分の理論を確立させて自分でヨガの良さを伝えていこうと決意します。

学んだことと書きたいこと

長くなってしまいそうなので2回に分けていきたいと思います。

今回は主にクリシュナマチャリアとその弟子達について学んでいきました。1930年代に基盤を作っていったことは分かりましたし当時にはヨガに対しての偏見があったことも知れました。

次回はクリシュナマチャリアの子供達からヨガについて触れていこうと思います。そしてより踏み込んだ話になっていきます。

今でこそヨガはたくさん教室があったり講師がいますがこんなしっかりした歴史があるなんて全然知りませんでしたとても面白いのでしっかり書いていきたいと思います。良かったら次回もお付き合いください。

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聖なる呼吸 ヨガのルーツに出会う旅(字幕版)

予告編はこちら

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『サンゴ礁の冒険』のサンゴから環境問題を学ぶ

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サンゴも人間も生態系の一部と学べる映画

『サンゴ礁の冒険』のサンゴから海の環境問題を学びました。アメリカの映画です。この記事は※ネタバレがあります注意してください。基本的には減少しているサンゴ礁や世界の海で起きている異変を10ヶ月間の遠征を通して探っていくドキュメンタリー映画です。

サンゴは動物、サンゴ礁は地形

花のように綺麗な色をしていたりまるで石のようにのように見えたりいろんなサンゴがいますがサンゴは動物なのです。少しサンゴについて調べてみましょう。

サンゴ(珊瑚)は、刺胞動物門に属する動物のうち、固い骨格を発達させるものである。宝石になるものや、サンゴ礁を形成するものなどがある。

サンゴ - Wikipedia より引用

 説明にあるようにサンゴ礁を形成するものがあります。少し映画から引用します。

造礁サンゴから作られる石灰岩 がサンゴ礁という地形を形成していく そしてサンゴが重なり合って徐々にサンゴ礁は大きくなる この巨大な構造物の創造主が小さな動物だとは驚きだ

映画『サンゴ礁の冒険』より引用

つまりいろんなサンゴがいてその中に造礁サンゴっていう種類のサンゴがいるようです。そのサンゴから作られる石灰岩が長い年月をかけて巨大なサンゴ礁となっていくってことだそうです。

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実は活躍してるサンゴ

映画内でサンゴが人間にどんな風に影響を与えているのか紹介されていました。

  • 骨折の治療と健康の回復
  • 3億人以上の人間がサンゴ礁から獲れる魚に依存

それでは骨折の治療から少し調べてみます。骨についていろいろ調べていたら人工骨のところにサンゴの記載がありました。

従来は、チタンやタングステンなどの金属、セラミック、サンゴ素材など人体との親和性が高い素材が用いられてきたが、部位によっては経年劣化や使用者の高齢化による不具合の発生などにより定期的にメンテナンスを行う必要があった。
現在、日本国内で販売をされている人工骨は、非置換材料(HAP: 水酸アパタイト)、吸収置換型材料(β-TCP: β型リン酸三カルシウム)、硬化型材料(α-TCP: α型リン酸三カルシウム)が主な種類とされている。これ以外にも、コラーゲンとアパタイトの複合体からなる柔軟性を示す材料や、現在治験段階であるが、他のリン酸カルシウムを用いたものなどがある。また、炭酸カルシウムや、硫酸カルシウムなども海外では人工骨として利用されている。

人工骨 - Wikipedia より一部引用

映画によるとこのサンゴの炭酸カルシウムというのが海外の骨折の治療において利用されているようです。そしてサンゴ礁の化合物が健康回復に役立っているみたいです。

またサンゴ礁あることによりたくさんの魚が棲みつくためたくさんの人がその魚の恩恵を受けれるのもサンゴやサンゴ礁のおかげであるということです。

以下の参考サイトに他にも例がいくつか載っていました。映画でも言っていましたがまさしく“治療薬の宝庫”みたいです。

美しいだけじゃない! 実は医薬品の宝庫でもあるサンゴ礁 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト (参考サイト)

サンゴ礁でおきている異変

そんな遠征のなかある異変が起きていましたサンゴ礁が死んでしまっていたのです。そしてこれらの現象は世界中で急速に見られていると研究者は述べていました。原因を探すため30年サンゴ礁を撮影してきた夫妻と海洋生物に詳しい研究者と共に考えていきます。主な原因は3種類ありました。

  1. 海水温の上昇→褐虫藻の放出→栄養不足
  2. 外国の漁船による乱獲→共生する魚の減少→互助関係の崩壊
  3. 沈泥→日光の遮断

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最初の調査地点グレート・バリア・リーフ

そして調査のためにグレート・バリア・リーフに向かいます。オーストラリアの北東岸にある世界最大のサンゴ礁地帯です。詳しくは以下で調べてください。

グレート・バリア・リーフ - Wikipedia(参考サイト)

ここの保護区では漁が制限されその20年間の成果をオオシャコガイから確認しています。22年前に見当たらなかったオオシャコガイが10個以上見つかっていました。これはサンゴ礁が再生している兆候だそうです。

南太平洋では乱獲により大きな魚がいなくなっているなかこの保護区では巨大な魚もみられました。

サンゴと魚の互助関係

そしてここではあることが学べました。魚とサンゴは互助関係にあるのです。しかしそれに気づけるのは一方が失われた後だと嘆きます。

どのような関係かというと魚達にサンゴは生えた海藻を食べてもらっているのです。これによりサンゴは窒息を免れています。そしてサンゴは魚達に棲み処を提供しているのです。

映画内でも紹介されていたハゼとテッポウエビの共生はとても面白かったです。以下に説明してくださっているサイトがあったので読みました。

海のいきもの ハゼとテッポウエビの共生|Marine Diving web(マリンダイビングウェブ)(参考サイト)

このような種間関係は信頼のもとに成り立っているのです。

サンゴと褐虫藻

褐虫藻はサンゴの組織内で共生しているのです。そして光合成を行いサンゴの主食の糖類を作り出すという重要な役割を果たしています。つまり褐虫藻がいないとサンゴは生きられません。しかし海水温の上昇によりこの関係に異変が起きていました。海水温が2度上昇して1週間で大量の褐虫藻が放出されたのです。

それはつまりサンゴの死を意味します。述べたおとり栄養を補給してくれる存在がいなくなってしまったからです。徐々に白化し餓死します。

2番目の調査地点フィジー

実はこの場所の名前は知っていました。記事にはしていませんが過去に『トゥルーマンショー』という映画を観たときにフィジーが少し関わってきたからです。一応載せておきます。

フィジー - Wikipedia(参考サイト)

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島民以外の人が潜る時は長老の許可が必要だそうです。フィジーでも漁を制限することによりサンゴ礁を守ってきたようです。

しかしそれでも沖の方はサンゴ礁は白化しとても悲しい光景でした。漁で生きていく島民にとってサンゴ礁の白化は死活問題なのです。

主な原因は外国の漁船による乱獲、海水温の上昇でしたがそれ以外にも理由がありそうです。そのヒントは木材を運搬するために川にありました。その沈泥が向かう先にあるのがサンゴ礁なのです。

1つならサンゴも抵抗できるが3つは多すぎる

映画『サンゴ礁の冒険』より引用

解決策を求めて

泥の問題を解決しているサンゴ礁が別の島にありました。海洋の環境保全の一環として保護していたマングローブが活躍したのです。水中に伸びたマングローブの根が沈泥をからめとる役割を果たしてくれていたのです。マングローブは知っている方も多いと思います。

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そこに広がるのは健全で逞しいサンゴ礁とそこに集まる様々な生き物でした。フィジーの子供たちはこのような自然の環境の中でサンゴ礁からたくさんのことを学んでいきます。フィジーには美しいサンゴ礁と白化した両方がありました。

3番目の調査地点仏領ポリネシア

沈泥による白化のリスクは海岸に近いほど高いのか?という疑問の答えを求めて向かいます。タヒチ島とモーレア島で調査を開始します。海岸に近い条件を満たしていましたが白化現象はみられませんでした。

沿岸を開発するとサンゴ礁は荒れていきます。それは上に書いたようにマングローブ林の消失により沈泥を招くからです。しかしこの場所では何故白化が見られなかったのでしょうか。それはリゾート開発だったからです。リゾート開発は環境に配慮します。何故なら観光客が訪れないからです。

火山とサンゴ礁

火山とサンゴ礁の関係は面白かったです。タヒチとモーレアでは火山が若くサンゴ礁も海岸沿いにありました。

時間が経った火山があるボラボラ島では山地の沈下と浸食がすすみサンゴ礁は海岸から遠くなります。

そしてそれは最終的にドーナツ型の環礁というものに成っていきます。火山が海に沈みこんで輪の形のサンゴ礁だけが残されるということです。

つまりサンゴ礁の位置や形でどれくらいのものかある程度判別できるということではないでしょうか。

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ランギロア環礁へ

世界で2番目の規模を誇る環礁だそうです。

ランギロア環礁 - Wikipedia(参考サイト)

台風等の自然現象で流されてもサンゴは再生するそうです。ランギロア島には名物のオグロメジロザメがいるのですが見当たりませんを周囲を探します。このシーンは圧巻でした。

10ヶ月の遠征を終えて

彼らのサンゴ礁を失いたくない思いはとても強いものになっていまいした。そしてこの10ヶ月の遠征でサンゴ礁を保護する手段を手に入れたのです。

サンゴ礁と多くの生き物は共に生きています。サンゴ礁が死んでしまうとそれは多くの生き物に影響を与えるということです。しかし白化現象が急激に進んでいる現実があります。

そんなサンゴ礁を守るために地球温暖化の抑制も一つの対策であるということです。そして薬を生む可能性を秘めているサンゴは人間を救う可能性があるということです。

学んだことと書きたいこと

普段都会で生活をしていてサンゴと関わる機会は全くないまま生きてきましたがこれだけたくさんの生き物に影響を与えている動物なのだと初めて知りました。

見た目が綺麗で宝石になるとかお祝い事に贈るとかそのようなことしか知りませんでしたが薬になる可能性を秘めていたり実際に鎮痛剤になったり、人工骨として使われたりしています。

そんなサンゴが主に3つの原因から白化していることが今回学べました。

温暖化による海水温の上昇、漁船による魚の乱獲、沿岸の開発などによる沈泥これら共通しているのがすべて人がおこしていることが原因だということです。

サンゴは長い年月をかけてサンゴ礁として大きくなっていきました。そこには数多くの生き物との種間関係のうえに成り立ってきたものです。そして種間関係は信頼が必要だとこの映画から学びました。

僕たち人間がサンゴをパートナーとしてしっかり見つめ直す必要があると僕は感じました。最後にこの映画に登場したある方の言葉を載せておきます。

”人間は生物界の一員であり部外者ではない” 

シルビア・アール

映画『サンゴ礁の冒険』より引用

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サンゴ礁の冒険 (字幕版) (4K UHD)

予告編はこちら

www.youtube.com

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