ニートが好きだね?

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昨日と違うニートになる。頭はたくさん動かした。手の動くままにやってみるよ。

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倫理と道徳

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 随分と期間が空いてしまったようですが、ようやく書きたいことが見つかったので書いていきましょう。今日書いていくことは前半「倫理」と「道徳」の違いとは何だろうかという疑問に対しての自分が現状どう考えているのかであります。後半は実は「倫理」と「道徳」のせいで自分の行動を制限しすぎているのではないかというお話。

 少し時は遡りますが1月の末に山川出版社の教科書を買ってみました。

 その中で「倫理」の教科書を読みながら自分なりに勉強を楽しんでいました。すると、これまでこのブログで書いてきたことと同じようなことや、ヒントになるようなことがたくさん書かれていることに大変驚いたと同時に感動したわけです。

 そして今、僕が行き着いている疑問が「倫理」と「道徳」の違いとは何だろうかであります。それではのんびり進んでいきたいと思います。

 疑問に思った僕は、まず「倫理」と「道徳」のそれぞれの意味をネットで調べてみたわけです。それぞれ載せておきます。

 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「倫理にもとる行為」「倫理観」「政治倫理」

倫理(りんり)の意味 - goo国語辞書 より引用

 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。

道徳(どうとく)の意味 - goo国語辞書 より引用

 意味を調べてみて僕が率直に感じたのは「倫理」の説明の中に「道徳」が出てきてるから同じものなのだろうかというものでした。たしかに、似たようなことが書かれています。どちらも人として守るべきもの、善悪の判断の基準になるものそんなところでしょうか。

 注目したのが“強制を伴う法律と異なり”の部分です。道徳においての僕の解釈は法律には書いていないけどさすがにこれやったら人としてまずいよねとかこれはいけるよねっていう自分の行為を分別しているものであります。

 そして倫理においては照らし合わせる規定みたいなものがあってもいいように感じます。また倫理は「守り行うべき」なのに対して道徳は「守り従わねばならない」となっていてここも少し異なるのかなと感じています。自分なりにどういう状況がそうなのか考えてみましょう。

 例えば、校則で制服が指定されているにも関わらず私服で学校に行ったとしたらまずいよねって感じるのが今の僕にとっての倫理です。僕の場合は制服が指定されているのに校則を破って私服を着て行くのは悪いことだと判断するからです。

 道徳に関しては、一緒に食事している人の皿にいきなり残飯を移したら法律を犯すわけでもないし、店や家ののルールで禁止されているわけでもないにも関わらず、人としてまずいかもしれないと僕は感じます。それが僕にとっての道徳です。

 まだまだ僕は未熟なので意見が異なる部分ももちろんあるとは思いますが今はそんな感じで捉えております。なんとなく直感ですが「倫理」は頭の中で基準と照らし合わせながら善悪を判断していて「道徳」は本能的にこれはさすがにまずいと判断してくれているように僕は思います。

 とりあえずここまで倫理と道徳について自分なりに考えてみました。この部品をどこに使うのでしょうか、寝ている時にまさかと感じたところがあったのです。以前僕が載せたドーナツ型社会のお話に繋がったのです。自分でもおさらいしながらもう一度簡単に書いておきます。

 

www.slpneet.work

 

 僕は社会は多数派と少数派の間に壁のようなものがありまるでドーナツの内側と外側で分断されているように感じていました。それを勝手にドーナツ型社会と呼んでいたわけです。

 社会のはみ出し者という言葉があるように内側にいれなかった僕は社会の一員であるという自覚に欠けていました。しかし考えを進めるにつれてそんな少数派も含めて社会の一員であるということを自覚したわけです。詳しくは過去の記事を読んでいただけると幸いです。

 そしてその多数派と少数派の壁の上にいるのが一部の天才と呼ばれる人だと僕は考えました。その壁を上る梯子の手段の一つに「倫理」と「道徳」が含まれるのではないかと思ったのです。ちょっと飛んでしまったかもしれないので順を追ってお話ししましょう。

 僕は人は集団で生きている以上、基本的に多数派と少数派に分かれていると思います。実際はもっと複雑なんでしょうけれど。また常に多数派の人もいれば少数派の人もいるだろうし、ある場合は多数派である場合は少数派と入り組んでいる人もたくさんいると思います。しかしどんな分野においてもその分野で輝いている人がいます。僕にとってそれが壁の上にいる人、天才なのです。

 どうしたらあの輝かしく見える場所に近づけるのか、そんなことを考えていると多くの人と違うことをしたら近づけるのではないかと思ったのです。しかしただみんなと違うことをしてもそれは少数派にしかなりません。その先に行くにはどうしたらいいのでしょうか。ちなみに今話していることは別に根拠があるわけではないので僕のただの戯言です。

 そこで出てきたのが「倫理」と「道徳」なのです。僕の仮説ではこの倫理と道徳を扱ってのバランスの取り方が異常に上手くなるとあの場所に行けるのではないかと考えています。前半部分で書いたように倫理と道徳によって人は自分の行動を制限しています。そして道を外れた行動をしないのは基本的に倫理と道徳で悪と判断したからです。

 しかし冷静に考えれば善と悪を判断する倫理と道徳をまともに習得していないのです。今まで判断してきた善や悪は本当にそうなのでしょうか。僕が言いたいのは全てが間違っていたとは思いません。ですが必要以上に制限をかけすぎて本来悪ではないことまで誤って悪と判断し行動を制限してきてしまった可能性があるのではないかと。

 よく様々な本で行動が大事と書かれています。その行動を妨げているものの中にアップデートされていない倫理、道徳が僕はあると今回思いました。たくさん動ける人が行動力があるように見えますがもしかしたらあれが本来の人の可能性を活かしきった姿であり、動けない人はただ制限をかけすぎてしまっているだけなのかもしれません。

 これ以上は長くなってしまいそうなのでそろそろまとめに入りましょう。

まとめ

 「倫理」と「道徳」はだいたい同じものとして扱われているけれど解釈によっては違うものとしても扱える。

 僕の中では「倫理」は頭の中で基準と照らし合わせながら善悪を判断していて「道徳」はこれは本能的にさすがにまずいと判断してくれているものという違いがあるがそれは人それぞれ。

 壁の上の天才に近づくためには「倫理」と「道徳」を習得することが一つの手段として考えられる。

 間違った「倫理」や「道徳」により善悪に囚われすぎて白黒二元論に陥ったり自分の行動を制限しすぎたりしてしまう可能性がある。アップデートすることにより動ける範囲が広がることが大きな前進に繋がる。

 それでは今日はこの辺で。またのんびり考え事しながら思ったことを書いていきます。

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