ニートが好きだね?

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昨日と違うニートになる。頭はたくさん動かした。手の動くままにやってみるよ。

ニートが好きだね?

僕と消費と生産と悟り

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引きこもりニートの発見

 自分とは一体なんだ?自立ってなんだ?どうして僕は引きこもった?そんなことをずっと考えていました。ようやく数ヶ月前の自分より考えが進んだので記事を書き始めたわけです。働いている人や考え方が異なる人には気分を悪くしてしまうかもしれない内容になっています。それに関しては最初に謝罪しておきます申し訳ありません。

僕と消費と生産

 まず、今日気づいたことを書いておきましょう。「消費と生産」という言葉を深く考えずに生きてまいりましたが「消費と生産」から大袈裟ではありますが「悟り」への片鱗が見られたことが今日の発見でございます。

 前回の記事で、「社会に出る」は僕にとって「社会の一員であることを認める」だったということに気づけました。今回はその続きの考えであります。それでは今日の話にいきましょう。

 「社会の一員であることを認める」ことに気づけた僕は、どうしたら自分は貢献することができるだろうかということを考え始めるようになったわけです。当然ながら、いきなりものすごい貢献ができる人は稀なわけです。そして、僕が所属している家族もまた社会の一部であるということからそこへの貢献が第一歩であると判断しました。

 具体的には、以前の記事で話した「生活的自立」にあたる部分になると考えています。それを身につけることで家族はその部分を委任することができるわけです。そうすると家族は時間を得られますから今までと違った変化が起こる可能性があります。

 これは前回の時点でもある程度考えられていた事なのですが、一つ大事なことを忘れていたのです。それは「消費」というものも社会に貢献してると言えるのではないかということです。ゆっくり考えていきます。

 これまでの話の流れから少し分かるように、僕の貢献という意識はかなり「生産」という部分に向いているように感じます。

 「社会の一員であることを認める」ことに気づいた時に、自分を支えてくれている親の給料がどこから来ているかを考えました。それはサービスや商品に対してお金を払ってくれる人が存在しているからであります。

 これはつまり「消費」してくれる人が存在するから誰かの「生産」が社会に貢献したと考えられないでしょうか。もう少し言うと、無職やニートやなかなか働けない方も「社会の一員である」と同時に「消費」という部分で社会に貢献していると考えることができると思ったわけです。

 ですが「消費」全振りというのはなかなかいい顔をされないのが実際のところだと思うのです。ただ、これは消費全振りに甘んじ利用する一部の考え方と道徳に対しての嫌悪感のように感じます。しかしそれは外から判別することは難しいため結果的に無職、ニート、働けない人は時に嫌悪の対象となるのではないかと今の時点では考えております。

 だらだらと書いてまいりましたが、結局「消費と生産」の自分なりのバランスをとることが僕にとっての社会への貢献なのです。またこう言うとあたかも常に消費何%生産何%という風に型にはめてしまいがちですが、僕は常に変動していいと思いますしそのほうが自然だと考えています。

 僕にとっての「消費と生産」をある程度話したところでこれを僕にとっての「悟り」と繋げていきましょう。

僕と悟り

 この「消費と生産」というものはどのように切り替わっているのか?そんな疑問を感じたのがはじまりであります。

 仕事している間が「生産」で買い物したり遊んだりしてるときが「消費」という曖昧な感じで考えていたのが反省しなければならない点だと思っています。どういうことかといいますと、この「消費と生産」は常に行ったり来たりしながら起こっているのではないかということです。

 例えば、午前の仕事で「生産」したとします、お昼の休憩に外でランチを食べたとしたらそれは「消費」だと思うのです。徐々に分解していくと人の一日というのは本人を含めたいろんな人の「消費と生産」が複雑に絡み合ってできあがっているのではないかということです。このように細かく区切れば行動するたびに個人単位でも社会単位でも物凄い勢いで「消費と生産」は行ったり来たりしているのではないかと感じました。

 これは僕の中であるものに通じていると感じたのです。「諸行無常」という言葉です。これは仏教の言葉だそうですが、学校で『平家物語』を学んだときに「諸行無常の響きあり」で初めて出会いました。

 常に生きている中で「消費と生産」を繰り返していることは諸行無常の説明にある「この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない」という説明に僕はただならぬ何かを感じたわけであります。

 また常に「消費と生産」を行ったり来たりすることでそれは誰かの「消費と生産」に繋がっておりこれもまた「縁起」というものに通ずるものがあるのではないかと感じたのであります。

白黒から色のある世界へ、答えは一つという思い込み

 ここから先はまだまとまっていないのですが、何となく繋がったことを書いていきます。僕にとって世界は白黒でした。

 どういうことかといいますと、インターネット上や人との会話のなかでどうしても人は白と黒という二つに分かれようとします。そして正義の名のもとに自分の意見を変えることは最初からない前提で言葉の武器を振りかざす日々になっていると感じるのです。

 ですが、徐々に「多様性」という言葉が目立ち始めたように色のある世界になってきたように僕は感じています。しかしこの色のある世界というのはまだ違和感があるのです。その違和感は何から来ているのか考えてみました。

 ひとつわかったことは、いまだに「答えが一つである」という思い込みに囚われている人が多いのではないかということです。色のある世界になったことによりたしかに今までに無かった選択肢というものが目立つようになりました。

 少数派と呼ばれる存在だったグループもインターネット上に意見を言える環境になってきてその存在も認知されてくるようになったと感じています。しかしそれは白と黒に新たな色の勢力が増えただけにすぎないと感じるわけです。これでは勢力が増えただけで不毛な争いはなくならない。

 これは結局誰が一番正しいのか一つの椅子を争っているからだと思うのです。誤解がないように言っておきますと、僕は争いを全部なくすべきだと申しているわけではありません。ですがあまりにも意味のない争いが多いように感じているのです。

 この世が諸行無常であるのならば、この世を作っている人も諸行無常であるということだと思いました。そしてその片鱗を「消費と生産」という絶えず行き来している状況からなんとなく感じたのです。

 ここが曖昧な部分であるのですが、もしそうだとするのならば、人の感情というのも実は常に複数の感情が同時に湧き起ったり変動していると思ったのです。(違和感やまとまっていないと感じたのは論理の飛躍みたいなものを感じているからであります)

 誰かの行動や言葉に対して「怒った」とか「嬉しかった」とか僕は一つの感情をあてはめていましたが、実際は複数の感情が複雑に絡み合っている様に思います。そしてその感情すらも一瞬一瞬のうちに形を変えていると思うわけです。

 だとしたらなおさら一つの解決策でどうして決着がつけれましょうか。そんなに世界は単純なのでしょうか。だから僕は答えは一つとは限らないことを常に心に持つことを決めたのであります。もちろん一つの場合もあるでしょうが一つとは限らないということでございます。

 それでは今日はこのへんでまとめることにしましょう。

さいごに

 「社会の一員であることを認める」ことから「消費と生産」について考えました。「生産」に意識が向きすぎていましたが「消費」も社会への貢献であると言えるのです。大事なのは自分なりの「消費と生産」のバランスを形成することであります。

 そして僕は生きていくうえで「消費と生産」を行き来することにより「諸行無常」と「縁起」に繋がるものがあるのではないかと感じました。

 そして人間の感情も含めて常に同じものはないとするのであれば一つの解決策で決着をつける一部の不毛な争いは答えは一つとは限らないということを気づくことによって回避できるはずだと思ったのです。

 この記事に載せている解釈はあくまで筆者個人のものであり誰かの考えを強制するものではありません。ご理解よろしくお願いします。

 それでは今日はこのへんで。

  ここに繋がるまでの日記は以下に載せておきます。

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