ニートが好きだね?

ニートが好きだね?

昨日と違うニートになる。頭はたくさん動かした。手の動くままにやってみるよ。

ニートが好きだね?

社会に出ていないという錯覚と僕も含めて社会という現実

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引きこもりニートの発見

 自分とは一体なんだ?自立ってなんだ?どうして僕は引きこもった?そんなことをずっと考えていました。ようやく数ヶ月前の自分より考えが進んだので記事を書き始めたわけです。働いている人や考え方が異なる人には気分を悪くしてしまうかもしれない内容になっています。それに関しては最初に謝罪しておきます申し訳ありません。

僕と幻とドーナツ型社会

 先に、今日気づいたことを書いておきましょう。「社会に出る」という言葉を、僕は間違って認識していたようです。僕が気づいた正しい解釈は「社会の一員であることを認める」であります。

 僕にとってここ数日の考えが徐々に進んでいくのが嬉しいと思うと同時に、言葉ではうまく表せない様な感情もわいています。とにかく今日の話へ進みましょう。

 既に消去してしまった記事かもしれませんが、以前の記事に書いた僕の頭の中で展開されていた社会の構図がドーナツ型でありました。どういうことかと言いますと、ドーナツの内側に社会に参加している人達がいて、外側に僕の様な引きこもりニートや社会に参加していない人達がいて、間のドーナツの表面に天才や権力者と呼ばれる人たちが立っています。これが僕のイメージしていた社会の図なのです。

 そのように考えていたわけですから、内側にいる人達のようには生きていけないなと考えながらも、天才や権力者になれるほどの努力をしているわけでもなく、外側の人としてひっそりと生きていくことを正当化する理由を探しているわけであります。

 

 これは幻です。

 

 なぜそういう考えに行き着いたのか、それはおおもとを辿っていくとみえてきたのです。

 例えばここ数日僕は「親の経済的支援」があるから今の環境が維持できていると言ってきたわけです。これは間違っていないと思います。ではこの「親の経済的支援」というものが何処から発生しているのかということを考えることがすべてのはじまりなのではないかと思うのです。

 もう少し具体的に考えてみます。僕は親の経済的支援によって生きているのであれば、そのお金は基本的に親の給料というものによって成り立っています。その親の給料を成り立たせるためには、会社や個人で仕事をして物を売ったりサービスを提供することでそれを必要とする人がお金を払ってくれて人件費が払えるから成り立つわけです。仕事をしたことがないのでなかなかうまく説明ができませんが。食べ物も服も今目の前にある様々な物や目に見えない物も誰かによって作られたものがたくさんあります。

 これは不労所得でも同じことが言えると思います。たとえその人自身が人と関わらずに生きていくお金が手に入れられる環境にあったとしても、たどっていけば必ず人に遭遇します。

 つまり、例え自分が社会に参加していないと思っていても、その生活を維持するための様々なことが社会によって成り立っていることを理解すると引きこもりでもニートでも社会の一員であるということが認識できます。

 では、どうして僕は気づかないうちに社会に出ていないと勘違いしてしまったのでしょうか。反省し改めたいと思います。

 もちろん、広い視野でものごとを考えなかった愚か者と言えば一言で済みますがそれだけではないと思うのです。僕の中で心当たりがあるのは「社会に出る」「社会人」という言葉の罠に引っかかってしまったと考えています。

 ここまで書いてなおさらに思うわけですが、正確な定義は分からないにしても、学生も赤ん坊も仕事を退職した人たちも全て社会を構成している一員であるということです。もちろん先ほども述べた通り引きこもりやニートもそれに含まれるわけです。

 学生が終わると「社会に出る」「社会人」になるという認識から「働く人」=「社会人」という誤った解釈をしました。もう少し考えてみます。

 おおもとを辿ることを人間単位で考えてみました。僕の親は社会の恩恵を受けて生きてきて、僕の祖父母も社会の恩恵を受けて生きてきて、そう遡っていくと社会がなければ僕は生まれていないことになります。

 『サピエンス全史』に書かれているような時代でも、人数は少ないながらも集団で生活していたわけです。それがどんどん拡大して、今の時代はこういう風になっているわけですが、社会の一員であることを認めない場合どうなるかと考えると、僕は生まれてこなかったという結論になります。

 ただ、社会の存在自体を認めないところにいってしまうと、それは誰かによって作られた服は飛んでいき全裸になり、誰かによって建造された家は崩れ去り、誰かによって作られたスマホやパソコンは闇の中へ消えた状態で放り出されることになるなと思うわけです。なぜなら社会の恩恵が受けれなくなるからです。 

貢献

 つまり、自分が社会に出ることを延期している状態にあると錯覚していましたが、生まれながらにして社会の一員であるということです。

 そうすると数日書いていた「社会に出ることを先延ばしにする」と「死を先延ばしにする」労働を共通に見えてしまった自分の未熟さが、マズローの欲求階層で遊ばなくても説明できるわけです。

 「社会に出ることを先延ばしにする」という条件が崩れて「社会の一員であることを認める」に変わるので比べようがありません。そして突きつけられる現実というのは社会への貢献であります。

 僕は、これを数値化して競い合うことに、今の時点ではものすごく違和感があります。今の僕にとって、この社会への貢献度の表面部分を数値化したものというのがいわゆる「給料」「年収」と呼ばれるようなものだと感じているからです。

 これによりなにかのゲームの火力争いを彷彿させるかのように数値に囚われて給料や年収の高低で争いが始まります。この土俵に参戦しようとすると僕のような親の経済的支援により維持している引きこもりニートというのは戦闘力がマイナスな訳でありますから撤退したいという気持ちが全くないといえばうそになります。

 しかしながら『論語と算盤』や老荘思想でも少し触れたように、あくまで僕が目指すべきは自分にできる貢献をできているかにあります。これを理解しないことには引きこもりニートや障害がある方ややむを得ない理由によって働くことができない人は絶望して終わることになります。

 ですがそれはあくまで数値上の争いのレールの上に乗せられることによって生じる問題で、これを吹き飛ばすために自分のできる貢献を社会にできているかを軸にすることが求められるわけです。

 そうなると今の僕は社会に貢献できているでしょうか。もしかしたらこのブログで書いてあることが幾人かに何かしらの役に立っているかもしれませんが、今はその位の貢献度ということです。子供が笑い、それを見て親も笑顔で仕事に出かけて、その笑顔によってお客も笑顔になったとしたら子供も貢献しているということになります。

 では引きこもりニートも既に何かに貢献できているのなら今のままでいいのかといったら違うわけです。ここで繋がるのが自分を磨くということです。自分を磨くということは「なりたい自分」を目指すとともにさきほど言った貢献度も成長させていくことだと理解しました。そしてこれに必要なことが「勉強」と「行動」なのです。なぜなら勉強したことを実際に行動して活用しないことには貢献度があがらないからです。

 いろんなことが自分なりに繋がってきました。なんとなく生きてきて大抵そこらへんに転がっているのは答えばかりで、そこへたどり着く自分の考えを見つけるのに苦労しました。

さいごに

 今日もだらだらと書いてきましたがまとめて終わりましょう。どこかで聞いたような言葉ですが、これは僕にとって大きな一歩です。

 引きこもりでもニートでも自分が社会に参加していない、できていないと思ってしまっていても、様々なことの元をたどっていくとちゃんと社会の一員であることが家にいながらも確認できるはずです。

 僕がいま書いているこのブログのサービスも、文字を打ち込んでいる端末も誰かによってつくられたもので、その誰かもいろんな人によってそこに辿りついているからです。

 「社会の一員であるということを認める」ことが世間で言われるところの「社会に出る」にあたるんだと僕は考えています。あとは貢献度を自分なりに成長させていくのです。

 貢献度の大小や数値上の争いを吹き飛ばすには自分の能力を理解しそれが誰の役に立っているとちゃんと理解すること。便利な世界になったがゆえに人との繋がりを忘れていました。

 今日はこんなところで。

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