ニートが好きだね?

ニートが好きだね?

昨日と違うニートになる。頭はたくさん動かした。手の動くままにやってみるよ。

ニートが好きだね?

続・僕と自立と引きこもり

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引きこもりニートの言い訳 

 自分とは一体なんだ?自立ってなんだ?どうして僕は引きこもった?そんなことをずっと考えていました。ようやく数ヶ月前の自分より考えが進んだので記事を書き始めたわけです。働いている人や考え方が異なる人には気分を悪くしてしまうかもしれない内容になっています。それに関しては最初に謝罪しておきます申し訳ありません。

僕と自己実現理論

 進化心理学という言葉が僕の耳を通り過ぎて行きました。マズローが古いと言われても僕はまだ出会ってすらいないのです。「そう焦らず待ってくださいな」と言っても返事が返ってくるわけではありません。人間は自己実現に向かって成長していくのか、5段階なんだそんな状態で僕の頭は考えることを始めました。

 そこでふと思うのです。そういえば僕がこうやって考えられるのは親の経済的支援があるからでそれをこのピラミッドから説明できないだろうかと。つまり何が言いたいかというと生理的欲求と安全の欲求は既に突破しているではないかと考えたのです。

 生理的欲求にはどうやら人間の三大欲求が含まれているようです。「食欲」「睡眠欲」「性欲」というのは衣食住の食と住があれば満たせそうです。安全の欲求というのは今いる日本という国で考えれば住があれば満たせそうです。

  つまり前回の記事で述べた親からの経済的支援を受けている状態にある僕にとってはこの生理的欲求と安全の欲求は最初から考える必要がないと判断してしまったわけです。それがとても恵まれている環境であったということは『この世界の片隅に』というアニメ映画のほうを観て食材の配給減っていったりお米を少しでも膨らませようとしているシーンで感じたのです。

  そして社会的欲求と愛の欲求とされているところが僕はインターネットの存在によって満たすことが可能になったのではないかと妄想しています。オンラインゲームやSNSでの交流が僕にとってはこの階層になるわけです。とりあえず順番に考えているもののこれは順不同なのでしょうか、僕にはわかりません。次の階層へ向かいます。

 承認の欲求にたどり着きました。このあたりから他者との違いを求めるようになるということでしょうか。集団から必要とされたい自分。つまり「特別な自分」になりたい「みんなと同じは嫌だ」そういうことでしょうか。

 そして自己実現と自己超越に続くのでしょうが僕にはまだ早そうです。いろんな生き方があるでしょうから当然どこかの階層をすっ飛ばせる生き方もあるでしょう。

 僕が考えたのは日本という国で生まれ、親がいて経済的支援をしてくれて、生まれたときからインターネットがある僕のような状態に似ている環境であればピラミッドの開始地点が承認の欲求からの人が実は結構いるのではないかということです。

 承認の欲求または自己実現の欲求で初めて悩んでいる状態の人と生理的欲求と安全の欲求を経験したことがある状態で悩んでいる人で意見がぶつかるのは何となく想像できます。それが昨日書いた「働いていないからそんなこと言えるのだ」に繋がると感じます。

 ここを理解できると「生きるために働いて死を先延ばしにする」と「社会にでることを先延ばしにする」が同じに見えてしまう自分の未熟さを多少克服できるような気がしています。欲求の階層が違うわけですからマンションの別の階に同じ家族構成の人が住んでいるようなものだと考えたら別に見えてくるわけです。

 また人によって欲求に対しての満足度も異なるだろうと感じますし階層になるほど単純な問題なのか少し疑問に感じました。もう少し詳しく言いますと、小食な人も居ればたくさん食べる人もいて、大きい部屋を好む人もいれば小さい部屋を好む人もいます。安全といえども鍵を何重にもかけなければ眠れない人も居れば扉や窓を開けながら寝れる人もいるでしょう。ただこれは脱線しそうなのでいつかの機会に。

 話をだいぶ戻しますと僕のような状態の人間は生理的欲求と安全の欲求のやりくりをした経験がないですから親を失ったり経済的支援が断たれて初めて気づくという危険を孕んでいることになります。これが「50・80問題」と繋がるのかはわかりませんが生理的欲求と安全の欲求のやりくりを親が生きてるうちにするのはとても大事だと思いました。

僕とあなたとアイデンティティ

 前回書いた記事でとても鋭いコメントを頂きました。たしかにアイデンティティは人生を通していろいろな経験をしていく中で徐々に形成されていって最終的に確立までたどり着く人もいるでのはないかと僕も想像しています。そしてそれは人によって当然時期が異なるわけでそうなると比較するのはどうなんだろうかというのもうなずけます。

 僕の表現力不足に知識不足も重なって前回の記事のあの部分には自分でも違和感を感じるところがあるわけです。なのであれからもう一度考えてみました。

 反省点としてはいきなり確立という言葉を使ったのが誤りではないかと思いました。確固としたものという確立された状態になるまでに段階があるでしょうし、人生の最期までそれを求め続ける可能性だってありますし、確立されたと思っている人がいてもそれは実は確立されていなかったなんてことも起こりうるわけです。

 なんともふわふわとした意見になってしまいますがでもそういうものなんだという域を抜け出せないでいます。また比較の際にあの例をあげたのはたしかに違和感があるなと僕も思いました。ただ「他者」というものが引っかかっているのは今も感じています。

 僕の現時点でのアイデンティティの確立までに必要だと考えているのが「なりたい自分」と「他者から求められている自分」の2つをしっかり自分が理解して無意識に使い分けれる状態になることなのです。僕の中でそういう解釈をしている状態にあります。

 そうしたときに「なりたい自分」というのは僕が考えればいいだけの話なのでそれで解決するわけです。問題は「他者から求められている自分」を考えるときにあります。ここで「他者」という存在が出てくるので自分だけの世界で考えられなくなります。

 そこで僕はあの人はこのポジションの人、その人はそのポジションの人といったように消去法のような形で僕に求められているのはこれかなと考えたのです。

 何が起きているかというと「Aさんにとってのなりたい自分」と「他者から求められている自分」が被ったら問題が起きるのではないかということです。ここに比較が絡んできそうだなと感じているわけであります。頭がこんがらがってしまいそうになりますが許してください。

 ただこれには怪しいところがもちろんあります。別に同じ役割の人がいても問題がないと言われればそれで終わりそうだということと、課題の分離のようなことがこれにも使えるのであればそもそも他者から求められている自分は自分ではどうしようもないということです。課題の分離を使うと僕が考えているアイデンティティの確立には矛盾が生じます。そんなことをぐるぐる頭で考えているわけです。

僕と哲学と宗教

 どうにかヒントとなるようなことはないかと無知な者なりに本を漁ってみたり調べものをしてみたりするわけです。そうすると哲学や倫理やそういったところによく流れ着きます。そもそも思想と哲学と倫理学と宗教の違いがあんまりよく分からないのです。このようなことはみんな学校で習っているのでしょうか。

 ただ何となく哲学と宗教に関して思うことがあります。今の僕にとっての哲学は生きている間にどうしたらもっと幸せになるのかなということを考えることで宗教はそれに死後の世界というものが追加されたような違いがあります。あくまで今の僕にとっての解釈なのでご容赦ください。 

 そして本などを読むと不完全な自分の考えが勝手に補足されあたかも自分もそう思っていたかのように錯覚してしまうのも自分の未熟さだなと思いながら実際に活用しないとただ知識だけを覚えた人になってしまうと分かりながらも難しいのです。

 そんなことを考えていると、ソクラテスや陽明学のように知行合一と連れていかれ心をぐさぐさと刺されていくのもよくみる情景になりつつあります。だらだらと書いてきましたが今日はこのへんにしましょう。

さいごに

 自己実現理論から引きこもりニートを考えてみると少し面白いなという自己満足な遊びでした。ほとんど言っていることは前回と変わりません。

 アイデンティティに関しては前回の記事でコメントをいただき考え直して改めました。意見を修正したことで前に進めたと感じています。ありがとうございました。

 哲学と宗教に関しては勉強したことを文章にして自分なりに落とし込んでいる状態です。実際に活用するところまでなかなかスムーズにいかない自分への戒め的な部分でもあります。

  

 

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