ニートが好きだね?

ニートが好きだね?

昨日と違うニートになる。頭はたくさん動かした。手の動くままにやってみるよ。

ニートが好きだね?

僕と自立と引きこもり

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引きこもりニートの言い訳 

 自分とは一体なんだ?自立ってなんだ?どうして僕は引きこもった?そんなことをずっと考えていました。ようやく数ヶ月前の自分より考えが進んだので記事を書き始めたわけです。働いている人や考え方が異なる人には気分を悪くしてしまうかもしれない内容になっています。それに関しては最初に謝罪しておきます申し訳ありません。

 進展した理由は3つあります。それは読書を始めたこと、学ぶ理由を見つけられたこと、カウンセリングを受けたことです。これら3つは僕の中では連動しているのですがそれについては後で書こうと思います。

根底にある働きたくない欲求

 引きこもる理由は家庭によってそれぞれ異なると思いますが、そもそも引きこもることができるのは何かしらから経済的な支援があるからと考えました。親のお金、生活保護、障害年金、不労所得等。僕の場合は親のお金というものに割り振られます。

 さらに、ニートという状態が維持できるのも厳密にはあてはまらない部分もありますが経済的支援が背景にあるからだと個人的には思っています。

 そんなことを考えている時に1冊の本に出会ったのです。『嫌われる勇気』というアドラー心理学を解説してくださっている本ですが「目的論」と「原因論」の存在を知りました。そこから「働きたくないから引きこもった、ニートになった」という全く知らなかった考え方に行き着くのです。

活動と仕事と労働

 僕の場合そんなことが考えられるのはあくまで親の経済的支援があるからできたことなのです。情けないことにそれがどれだけ恵まれた環境であったことか気づくのに8年もの時間が僕には必要でした。

 「なぜ働いているの?」と働いている人に聞いたことがあります。すると返ってくる答えは「生きるため」「家族を食わすため」でした。もちろん楽しいから働いている人や目標のために働いている人など僕の想像する以上にたくさんの理由で働いている人がいるのは分かります。ですが最初に返ってきた「生きるため」「食べるため」という存在が僕には大きな障壁になったのです。

 ハンナ・アーレントは人間の生活を「観照的生活」と「活動的生活」に分け、その「活動的生活」を「活動」「仕事」「労働」の3つに分けました。「生きるため」「食べるため」というのは僕には「労働」の部分にあたると思ったのです。

人はいつか死ぬ

 人はいつか死んでしまうのに「生きるため」に働くというのが僕にはどうしても分かりませんでした。しかしこれは経済的支援を親から受けているものが口にすることは「働いていないからそんなことが言えるのだ」と繋がるのは当然です。もちろん生きがいや目標があって働いている人は理解できますし「労働」も含めて働いている人は凄いなと尊敬もしています。僕はいまだに出来ないからです。

家に引きこもるか社会に引きこもるか

 夏目漱石の『こころ』の漫画版を目にしたときに「モラトリアム」という言葉を目にしてそこからエリクソンの「心理社会的モラトリアム」にたどりつきました。またRaphaelというバンドの『ピーターパン症候群』という曲を思い出しました。

 つまり自立できないまま大人という年齢になり「社会に出ることを先延ばしにする」モラトリアム人間な僕と「死を先延ばしにする」労働という存在が僕には共通して見えてしまったのです。

 本当は働きたくないけど仕方なく労働せざるを得ない人にとっては納得のいかなかったり環境がよくなくても辞めるわけにもいかず社会の一部のエリアで身動きがとれなくなっているのではないかと僕は感じてしまうのです。こうしたい、ああしたいという願いはあっても社会という大きな家の住みづらい部屋から住みやすい部屋へ移動したくてもできない図が引きこもっている状態と似ているように見えてしまうのです。

働いている人と僕の違い

 もちろん違う点もあります。僕の場合は引きこもりがちなニートであるため交流する人材の選択肢が広いとは言えませんが人と関わるかどうかという部分をある程度自分でコントロールすることができます。

 働いている人は人と関わらざるを得ない状況に引きこもりニートよりは遭遇する可能性が高いはずです。それは本人の意思とは関係なく「何かの役に立っている」ということを引き起こしている可能性が引きこもりニートより高いということです。

歪んだ考え方と青年期におけるアイデンティティの確立

 もしここまで読んだ方がいるならこのように感じるでしょう。「こいつ歪んでるな」と。僕もそう思います。本来であれば高校生くらいでこのような問題に自分なりの意見や考えを持ったはずです。ですが僕は青年期におけるアイデンティティの確立に失敗しました。失敗したら修正すれば良いだけなのですが当時の僕は投げ出したのです。

 ただ人生一度しかないわけです。他の方と比較すれば当然その年齢になってもアイデンティティが確立できていないの?となります。これに関しては今になって思えば自分というものをしっかり持っておくべきだったなと反省しています。なのでだいぶ遅いですがアイデンティティを確立させるぞとなりました。そこで孔子と老子に出会ったのです。

天才か名もなき天才か

 僕の様な無知の者が孔子や老子、様々な哲学者を語るのは数百年早いことは承知していますがそれでも惹かれてしまった、心動かされてしまったのだから今の自分にとってはこう解釈しているというものであります。

 そもそも僕が孔子の『論語』に流れ着いたのは直接ではないのです。渋沢栄一の『論語と算盤』という本から流れ着きました。この記事に挙げられている人物や本の名前は多くの人にとっては知っていて当たり前のような人々や本かもしれませんが恥ずかしながら名前しかしらない、良く分からない状態のまま生きてまいりました。

 渋沢栄一については福沢諭吉の次に1万円に描かれる人、大河ドラマ『麒麟が来る』の明智光秀の次に大河ドラマになる人という認識です。とりあえず『論語と算盤』と福沢諭吉の『学問のすゝめ』を読んでこの二人は外国から何かを持ってきたという部分が共通しているなと思ったのです。そして渋沢栄一が『論語』をとても推していて論語ってすごいんだなと何となく思っていました。

 でもある違和感を感じたのです。これはリーダーだったり天才が目指すべき道ではないかと。自分の能力に見合ったことをやるというのが僕の「蟹穴主義」の解釈であって、僕の今の頭は並みより少し足りないくらい。たくさん勉強しても限界値は並みに毛が生えた程度か万に一つ秀才に足を突っ込む程度だろうと。

 つまり能力が足りないのにこの生き方を真似ても僕はこんな上手くいかないだろうし実際みんな上手くいくなら世の中には愚痴や不満という言葉は生まれていないのだろうと感じたのです。また多くの人が自分の能力を過信しすぎて天才の真似をするから上手くいかないのではないだろうかという仮説を立てました。でも天才達にとっては多分本当のことが書いているのであろうと。

 では孔子の考え方の他にどんな考え方があるのだろうかとうろうろしていたときに老子・荘子にたどり着いたのです。これは僕にとってとても衝撃的でした。老子や荘子も解釈は人によって違うのでしょうけど自分の能力に見合ったことをやるという点は共通しているように感じました。もちろん全てが納得できる内容ではないですし自然とか宇宙とかいきなり言われても目が点になりましたがそれでも心に刺さるところが多いのです。

老子・荘子からエピクロスへ

 自分らしく生きたいと願う僕にとって「こう生きたい自分」というものがもやもやと霧がかかったような状態であってその霧を大半をとっぱらってくれたような感じでした。もちろん全てが取り払われたわけではありません。あくまでどう生きたいか決めるのは自分ですから。ですが参考にできるモデルが居ただけでも僕はとても嬉しかったのです。

 「快楽主義」と名前だけ見たら誤解されそうなエピクロスもギリシア文化とオリエント文化が合体してヘレニズムになったのであれば大きく動いた時代に求められて生まれた考え方なんだろうなと妄想し、それがどんどん時代が変わっていく現代の僕にとって染みる部分がありました。労働のところで述べた自分にとっての「死」の考え方がこう捉えてみたらという選択肢が与えられてあぁたしかにそうするとしっくりくるなと。心の鎖が1個ずつ解かれていくような気持になっていくのです。

 老子や荘子やエピクロスの様な存在は名前が残っているものの1歩間違えたら世捨て人と誤解されそうな部分があると感じました。ですが社会からみたら「んん」と思われても自分のできる範囲で貢献したいなという気持ちを与えてくれたのです。

働く=労働と誤解してしまったと国民の三大義務

 僕は労働が納得できないだけで働くことまで認めない必要はなかったわけです。何が正しいとか正しくないではなく僕はそう感じたのでそうやって生きていきます。自分の無知さを反省し自分に出来る範囲で貢献すればいいんだと。

 また国民の三大義務を考えたときに「勤労」と「納税」がありますが、別に勤労したお金で納税しなさいとはなかったので親のお金でも払わなければいけない税金はしっかり納税して、やりたいことやるのはそれはそれで生き方としてありなんだなと感じました。     

自立と依存について

 自立も人によって考え方は異なると思うのですが、僕にとって自立の対義語は依存という認識です。つまり何かに依存している状態を断ち切れた時が自立した状態だと考えています。現在の僕の状況では親のお金という部分に依存しているところがあるのでこれは僕にとって自立していない状態ということになります。

 自立というものは分解できないのでしょうか?僕が不思議に思ったことは働くことはできるけれど家事や支払いの手続きができない人も案外いるのではないかと考えたのです。仮に居たとしてもし自分で生きていくのであればお金を稼ぐ能力のほかに家事をこなせる能力や役所などの手続きをこなせる能力が求められるわけです。

 つまり働かないからといって家事やさまざまな手続きまで人に任せるのは別問題だと僕は感じました。そして僕はこれを勝手に「生活的自立」と名付けています。もしかしたらどこかの偉い人がもうわかりやすく説明してくれてるかもしれないですが僕はまだ見かけていないので。

 ちなみに僕にとってお金を稼いでくることは「社会的自立」だと今は思っています。この「生活的自立」「社会的自立」の両方が出来て僕の中では自立なのです。ですが結婚や同棲等のシステムを使うことによってどちらか役割分担したり個人の負担を減らしている人もたくさんいると感じました。  

 なので僕はまず「生活的自立」は親が生きている間に絶対習得しようと行動を始めました。小学生レベルなわけですがいつかしっかり自立するためには笑われたってやるしかありません。料理、洗濯、ゴミ出し、掃除、銀行や役所の手続きそういったことを学ぶのです。これができることによって自立の半分が片付くわけですから親の心配は半分にできるはずです。

 結論

 僕の場合はさっさとアイデンティティを確立させる。確立させる際に「なりたい自分」と「他の者から求められる自分」のバランスを考える必要がある。その最適解は知らないが時代によってどの配分がウケる、ウケないは勉強すれば分かる。つまり固定させないで状況に応じてスライドさせる。

 働かないからといって家事や必要な手続きも他に任せるのはなんか違う。だから僕はそれは自分でやる。全力が使えるものを全て使うことなのであれば親のすねをかじるのは生存戦略の1つとも言えるし本人の自由。労働が嫌いなら仕事、活動という選択肢が残っている。選択肢の幅が自由度に繋がるのであれば自由になりたい人ほど勉強して選択肢を増やせばいい。

 学びたいから本を読み始めたし、外に出れるようになった。カウンセリングやブログを始めてからインプットしたことをアウトプットする機会ができた。全ては「こうありたい自分」にもっと近づくため。

 

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